地震・ツナミを考えるの続編ー第19稿

身の廻りに起る不都合について述べる。前稿に続いて、第16番目のテーマとしての地震それに津波について触れる。
拙宅では、6月は地震の月とするのが家典である。
地震を体験したことで、非常に備える戒めとし、地震の元である地殻プレートの出発点、則ち大地が生まれる場所を見て確かめようと、遠くアイスランドまで「ギャオ」を視察に行ったこともあった。
<1>の体験 
新潟地震  1964年6月16日 M7.5 震央は新潟県粟島沖南方40km(海中)、震源の深さは34km(海底)
因みに筆者は新潟市内に居住していた、時に18歳、単身親元を離れて2ヶ月半での出逢いであった。
<2>の体験
宮城県沖地震 1978年6月12日 M7.4 震央は宮城県金華山島沖東方74km(海中)、震源の深さは40km(海底) 因みに筆者は仙台勤務、家族4名とも市内に居住、息子4歳、娘3歳であった。
以上が地震体験の概要だが、これに前稿で述べた栗駒地震(2008年6月14日、筆者は当時中部圏に居住、体験カウントとしない)を含めると、6月を地震の月とする理由ありと俄然説得性が増すように思うが、どうであろうか。
因みに、宮城県沖地震の方は、その後気象庁が1978年宮城県地震と呼ぶようになったらしい。追加命名の背景は、日本列島の太平洋岸は、遠くカムチャッカ半島から連なる世界でも有数のプレート沈み込みによる地震多発帯、つまり地震銀座でもあるから、紛れないように年表示併用としたらしい。
ネット検索すると、40年から50年の周期で繰返す起きるとご高説を披瀝している。地球時間で起きる自然事象を天文歴で表示することに、さほど意味があるとは思えないし、プレートの大きさや範囲が判明しないままで地震性状を述べることに何ほどの説得性があるか疑問ですらある。
ネチズン・ワールドは言ったもの勝ち、もし放言自在無責任の慣行があるとしたら、そりゃ怖い。
ここでプレートの大きさや範囲に言及した理由は、次のことにある。
十勝沖から関東平野沖までは連続して地震が多発する地域だが、果たして一枚のプレート上で起きているのかどうか、それを抑えずに天文歴での発生周期を論ずるのは如何なものであろうか?と言う疑問である。
もし、この間にプレートの断裂が見つかれば、それはまたそれで新展開となるはずであり、発生周期や地震規模との関係も見直されるのではなかろうか?
もっとも未来永劫、誰もそこに行って確かめることは出来ないのだが、であればこそ、軽々しい発言はどうかと思う。
新潟地震の方も名称こそ異なるが、県内から県外周辺も含めると、同じプレートが度々揺れているかも知れない。
平成に入ってからでは、3年間に2度起きているとも言える。
柏崎刈羽原発はプレート境界線の上にあるのを見落としたとか、そうでは無いとか、色々聞えてくる。
地震命名は、工事絡みで生臭いかも?などと、前稿で書いたが、それもまた狭い人為の事でしかない。
この稿でも新潟県の内だ外だと、人事による行政区域設定に立って地震を述べたが、そのことに何らの科学的合理性は無い。
私見だが、北海道の日本海沿岸から南は少なくとも能登半島までを、共通の震源域と括ってよいのではないだろうか?
このゾーンのどこかに、プレート境界線が存在するかも知れない。そうでないかも知れない。
どっちが表銀座裏銀座かはどうでもよいが、列島の両サイドのどちらもが、ほぼ同じ頻度で揺れを繰返しているようでもある。
何度も言うが、地中は見えないからこそ興味が湧くとも言える。地表で得られるさまざまなデータを組合わせて、間接的にあれこれ想像たくましく時空を泳ぎ回る、そこが醍醐味である。
能登半島から頸城郡までの間は、特異な地学事象が集中するように思える、親知らず子知らずの天険、姫川のヒスイ、富山湾内に日本海の最深度海域がある、その狭い湾域に大河が集中して注ぐなどの不思議さなどなど、、、
とりわけ、ヒスイの産出地は、これまで世界で3カ所しか確認されていないのだそうだ。実験岩石学の成果では、ヒスイ生成条件が解明されていると言うが、そのような高深度にあるリソスフィアが、何故どんな事情で地表に露出する事態に至ったのであろうか? 
その答の手がかりを求めて、地の果て(これは不出来な世界地図での文学的表現、地球儀によれば該当しない言葉)アイスランドまで行ったが、彼の地には、更なる新鮮な地学事象が豊富であった。泳ぎ回るべき想像時空間の広さ、奥深さを実感した。
アイスランドは、専ら新潟地震との関係である、太平洋側プレート沈降との関係ではない。
とまあ、雑然と書いてきたが、そろそろこの稿のテーマである地震津波を終らせたい。
さて、最後に、日頃土地持ちの方が不動産と呼んで、比類無い信頼を寄せる、この固い地面が毎日膨らんだり萎んだりしていることをご存知だろうか?そのことは、地震とは一応無関係だが、揺れのデータを計測するうえでは、無視することは出来ない、知っておくべきことである。
これは、津波による波の上昇幅を確定する場合に、干潮、満潮。時に大潮による変動を考慮に入れることにも通ずる。
要約すると、この固い地面もリソスフィアと呼ばれる、比較的柔らかい地殻の上に浮いていると考えたらよいのである。
ある程度水分を含んでいるからリソスフィアもまた、海洋同様に太陽や月との位置関係に応じて、毎日休み無く膨張収縮を繰返している、海にあることは陸にもあるのだ。
これを地球潮汐と言う、この研究の第一人者は、竹内均(1920〜2008)で、彼は地球潮汐の数値データ算出方程式をもって学位を取得し、その後東大教授、科学雑誌Newtonの編集長を歴任した<典拠、Newton 2004-7月号、62頁>。
序でながら、その昔NHKが放映したTVアニメ「ひょっこりひょうたん島」について述べよう。我らが住むこの日本列島もユーラシア大陸から分離して漂流して、現在の位置にとりあえず存在している。
では、野尻湖ナウマン象(1948年発見、1962〜2010まで延べ18回発掘調査が実施される)は、約4万年前の古生物だそうだが、筆者にとっての素朴な疑問は、次の通りだ。
象は島が大陸から分離する時、既に島に乗っていて、そのまま何世代かを経て、生きて漂流してきたのか?
それとも、島が分離した後、氷河期に形成されたであろう海峡上の氷の架橋<間宮・津軽の2つの海峡か?>を渡って来たのであろうか?
どちらかであり、そしてまたどちらでもない可能性無しとしない。
島だけでなく地球上のあらゆる大地が、移動することは、現在では広く知られている。相互の平均移動速度データまで公表されている。
この大陸移動説を最初に提唱したのは、ドイツ生まれの地質・気象学者A.L.ウェゲナー(1880〜1930)だ。
この説を発表した1912年当時は全く評価されず、不遇のうちに亡くなったと言う。
その後20世紀の半ばになって、プレートを動かすプリュームの存在が確定的になったことで、彼の業績は認められた。
ここで筆者の体験談を一つだけ述べよう。
新潟地震発生直後、津波の襲来を想定して、寄居浜に行った。これはその昔、教科書に「いなむらの話」が載っていたことを憶い出したからだ。海岸線がゆっくりと後退して行くのをこの眼で見た。体験に基づき、すべからくツナミはまず引き、その後押寄せるものと思い込んだ。
後に映画ポセイドンアドヴェンチャーで、水の塊が壁のように連なって押寄せるのを、映像効果を狙ったフェークメイクと思っていた。
だが、その後我が体験の修正を迫られた。
インド洋スンダ海近辺で起き、インド洋のほぼ全域を襲ったツナミの記録映像(2004年12月26日=現地・日本とも同日、スマトラ・アンダマン地震とも言う)を見た。
今では、こう思う。偵察目的で海岸に接近するなど、とんでもないことだ、、、
しかし、たまたま新潟市に限れば、海の見えるところが同市の最高標高地帯<除く人工工作物>に当るから、結果正解であったことになるのだが、、、
最後の最後。体験による地震記事の第3番は、いつ埋まることであろうか?
世に言う、2度あることは3度ある。と
残り数日で、32年の空白が過ぎ、33年目に向けての空白カウントが始まる、果たしてこの先どうなることか、7月が待たれる、、、、
ここで蛇足だが、地震体験と都市生活について触れておきたい、都市インフラ、具体的には、上水道・下水道・都市ガスが地下の主に公道の真下に、そして商用電気が空中の主に道路端を走る。書くまでもなくニッポンの常識だが、そのことが大いに疑問である。
地震が多発するクニが、西欧に追いつけ文明化一点張りで、固有の風土を無視した社会投資が、大揺れ一発でパーになる。
短くて3週間、時に3ヶ月も生活レベルは、一挙に原始時代に戻る。特に悲惨なのは、4階以上の高層住居だ、水洗トイレが使用できなくなる事態は、あまりにむごたらしいので、もう筆を置く。