KankyoーNo.18

地震・ツナミを考えるー第18稿
身の廻りに起る不都合について考えてきたが、第16番目のテーマは地震である、併せて津波も取上げる。
世の中にはよく判らない事が多々ある、判らない事や突然に起る事ほど恐ろしいものはない、その点で地震津波が筆者にとってのそれである。
普通に言う、判らないのは怠慢にあると。そして判るための方法と努力は、まず他人の話をよく聞く事にあるらしい。
だがしかし、耳から入る情報は、耳に蓋がないから勝手に入ってきて、当人の意向に係わらず留まらないのである。
筆者は幼少の事から、耳を掻っ穿って(かっぽじって)よく聞けと言われたものだ。耳もさることながら、真の原因は耳と耳の間にあるものの性能にあった。それが良くないことを親は早くから知っていて、その都度指摘していたのだ。因みに掻っ穿っては、広辞苑に見出しがあるが、この表記6文字の前半だけを切出した語は、見出しがなかった、差別語に当るためであろうか?ことほど左様に、世に隠されていることは多いようだ、、、、
実は、努力や方法の如何にかかわらず、地震津波ほど判らないものは無いのである。
まず、その理由について少し触れよう。
頭上の事は、人類始まって以来の膨大な知識の集積がある。星占いと呼ぶもよし、天文学のことだ。
それに比べて、地文学(ちもんがく)のなんと後発で、しかも貧弱なことであろうか、津波に関しては水文学(すいもんがく)とでも言うべきかな?
地震津波は、後述するようにメカニズムが共通だから、地水文学(ちすいもんがく)と呼ぶべきかもしれない。とまあ、話題はあらぬ展開となったが、要するに宇宙は雲が出たら別だが、労せずしてただ見える。
対する地水文は、人類史仮に400万年と措定し、この間の人智の全てを尽してもなお、未だに全く見ることができない。見えると見えない、この差が科学や技術の領域では、決定的である。因みに、見えないもののはまだある。内なる宇宙としての人体もそうだ。内科学、病理学、薬理学などが、科学性に乏しいとされる背景もそこにあるのであろう。電気、放射線も長い人類史の中で利用されるようになったのは、この50年かせいぜいで100年の近さだ。これもまた見えないエネルギー体系だからと言えよう。なお、蛇足だが電気をめぐる不都合については、拙稿本シリーズのNo.8〜10を参照してください。
実はもう一つある。地学の中で地震の研究が遅れた理由、それはヨーロッパに地震が少ないことである。
科学は、閑人、もの好きの成れの果てが造り出したガラクタの塊なのだが、身の廻りに地震が殆ど起きなければ、関心の持ちようもまた無い、その点でヒトも科学もまた環境の産物である。
欧州に地震が少ない理由は、地水文学の素人である筆者には手も足も出ないことだが、次の事は言えそうだ。
この国の学者先生は、ヨコ文字で得た情報をタテ文字に置換える、ただそれだけで、大権威、第一人者の名声を得てきている。少なくともこの140年はそれだけである。ありていに言えば、模倣の天才なるコトバがあれば、大権威、第一人者の定義のほぼ大部分を構成する要素である、アト少し付け加えるとすれば、語学の要領に秀でるくらいだ。大学者のバックグラウンドは、書斎での労働つまり二次情報のあとなぞりのみだから、学生に出す試験問題も○×式のみ、模範解答は予め決っており、一つしか無いのだ。別にこれはライトタワーハウス・ユニヴァーシティーのみを指してはいない。フィールドワーク無し、独自の推論思考過程やディベートを経ないすべての書斎独居学者を言っているのだ。
脱線はそれまで、さて地震学が成立する環境として、日本列島、南米太平洋岸、トルコ、インドネシアアイスランドなど挙げられる。
地震学  権威出すほどの  ふしあわせ
とは、川柳もどきだが、足下の地面が揺れる、これほどの不幸はないと言える。その上に、四季の変化がはっきりある気候帯と来ると、葬儀の列に、酔っぱらいの運転する車が飛び込むような二重の不幸ではある。津波は国際用語もまた「ツナミ」だそうだから、川柳もどきもあながち的外れでなく、地震、ツナミの権威は、日本人が占めているのかも、トホホ、、、?
関東大震災は、アジア太平洋戦争を誘発した一大原因として掲げられるべきと思うが、本稿の主題ではないので通過する。
足下の地中は見えない、ヨコ文字世界に模倣すべき先進例がない、このハンディをものともせず、しかも人数の少ないシマグニの中で、地震を対象とする科学が独創的に開発された。
地震研究に首を突っ込むことは、このクニのKY尊重社会風土では要領の悪さの典型である。その独創性、意志の強固さにこそ科学者たる醍醐味があったかもしれない?
地震学とは、つまり五里霧中、群盲右往左往である。
要するに地震は、避けようがない、判りようもない。もう結論が出てしまった。
あそうそう群盲が象をなでるの故事?だが、五感のうちの皮膚感覚でも使えるのはうらやましい限りだ。
地震は、地中に行く方法すら無いのだから、まったく手も足も出ない。
せいぜい地震の波形を収集、分析して、想像するだけである。導きだす結論は、どこまで言ってもこう考えるしかないとか。このモデルで、ほとんど破綻無くあらゆる事象が説明出来るとか。まあ、その程度だ。
でも過去に起きた地震について、発生の仕組やその性状変化の様子が矛盾無く説明出来ることは、大変に価値あることだ。
だが、そのことは則ち予知に繋がらない。
予知すなわち将来起る地震が、いつ頃、どの場所で、どの程度の規模で起るかを、予め知ることは出来ない。よって防災もまた極めて限定的でしかない。
これが最も良心的な科学的結論である。
しかし、現実のメディア報道には、地震予知地震防災なる語があふれている。
そこで筆者は、負け惜しみを言わざるを得なくなる、せいぜい誇張してもカマキリの斧での切込みだが、それを振り回そう。説得力が乏しいだけにその早さは眼にも留まらないかも、せいぜい耳を掻っ穿って、音くらいを聞き逃さないようにしてもらいたいものだ。
直後対策や予防の措置は、政治や行政の役割上やむを得ない、検討されてよい。予知なしの防災オンリーとしてだが、、、、、
因みに、遠隔地で起った地震やツナミの発生を速報することが、予知でないことは言うまでもない。
この既知速報システムは、直下型地震にはまったく役立たない。震源が真下のもの、つまり揺れが足下から始まるときは避けようがない。
地震予知は、眼前の裸の王様だ。現代の錬金術師の口車を真に受けて予算をつける、それを正面業務と信じ込んでいる政治屋と行政官が居る。
この者達は力がある、この者達に社会的影響力があることの証明は容易である。メディアが報道する、そのことが則ち証拠である。
ここでもう一度言おう、良心的結論を。
地震は前もって判らない、だから避けようがない。ツナミもまたその発生は前もって判らないが、水中を伝わる音は早いにもかかわらず、巨大エネルギー波のほうはそれほど速く伝わらないから、既知速報システムが有効に働きやすい。地中と水中の性状はそれほど異なるのだ。
ここでほぼ2年前に起きた栗駒地震を想い起こしてもらいたい。
2008年6月14日発生、マグニチュード7.2、震央は岩手・宮城・秋田3県の県境付近、震源の深さは約8km.以上が客観的データである。なお、緯度経度の表示は省略し、死傷者数なども割愛した。ついでだが、ここに掲げた地震の名も、震源付近で広く名を知られた山が黒駒山なので、そう呼んだのだ。おそらく行政の命名とは、異なるであろう。
因みに風聞俗説だが、地震命名にはさまざまな利権が絡み、直後にスタートする復旧事業の予算割付をも規定するため、かなり際どい非科学的な社会力学の産物として命名決定されるそうだ?
筆者が言う栗駒地震は、中型規模の上位クラスに属する内陸直下型で、言わば大型に迫る比較的大地震と言えよう。
ここでメディアが速報した、あの時の惨状を想い起こす。戦後の道路・河川工事は実に杜撰なものだと思う。
この戦後とは、明治の鉄道建設工事箇所で起きる災害との比較で想うことだ、漠然たる印象でしかないが、人為的に盛り上げた土砂が、その周辺域に施工面積の数倍規模に大きくはみ出すのは、素人目にもおかしい。戦後工事の手抜きか、技術水準の低下もしくは選定施工方式の誤りかは、歴史の後退、社会システムの劣化を物語っているかもしれない。
地震で壊れるような工事はやめて、減税するほうがまだよい。庶民は減税分の資金でもって、防災グッズを購入するかもしれない、個人の営為は自己責任である。自己責任なる言葉は、他者に向って発するべきものでない、何故なら自明の理に当る言葉だからだ。
だが、それを決定的な窮地の場面で、発する政治屋が多いクニがあるらしい、選ばれた議員が五流で、もしこの者が再選されたとしたら、その選挙民はどう贔屓目で見ても四流以下であろう。
似たような事は隣の国でも起る、21世紀の事だが、ジュニアがなんと再選されたのだ、親子で大統領経験者で親の方は再選を拒まれたのだから、20世紀はまだましだったようだ。あの国は鉄砲を規制しない事で、自己責任の原則が徹底されつつ暴言が抑制されるのだとか。
鉄砲が出たついでに、「てっぽう水」について触れておく、これは山間部における津波の類いである。
長野や奈良などの海無し県には、津波についての関心が無い。関心がない土地には、言葉もまたないのだ。
あえて捜せば、山津波がある程度だ。
津波は、山崩れの大規模なもので、土石流とも言う。高低差のある自然地形でのみ発生する特異な災害である。
津波が自然災害であるのに対して、てっぽう水は災害である、言葉として自然を付けるべきでないから付かないのだ。
この2つの違いは、こうである。
津波は、地震や長雨が原因で、自然に堆積した土砂が、一気に低地に押し出す自然事象である。
対して、てっぽう水の場合は、直接の引き金が地震や長雨だが、押し出すものが、ある意図をもって人為的に堆積された土砂などであるから、自然人為の複合的事象である。さっき栗駒地震による道路崩落もまた自然災害ではないのだ。
自然人為複合事象による崩落事故で最大のものは、既に戦前USAで起っている、ダムの決壊である。
水の循環は、地球に備わった自然の摂理だ。だからこそそれを断ち切って、雇用創設、予算消化を狙った自然破壊が断行されるべきでない。
過去の災害事例に学ばず、戦後の現代にダムを造っているのは、中国文化圏の大陸と所属列島くらいに限られる。
ダム建設に限らず、この2つのクニに共通する事は無数にあるが、ここでは代表的な3点に絞る。
人権が無いこと、
役人風が吹くこと、
言葉を定義しないことだ。
この3つが、21世紀に残る究極の原始封建制もしくは半永久的後進社会と要約される基幹的社会病理だ。
3番目の、「言葉を定義しない」は、若干補足説明が必要であろう、
このクニの例だが、文字では「三屋益独占土木工事」と書いて、詠みは「こうきょうこうじ」としている。つまり、財政支出による公金を土建屋、政事屋、役人屋のトライ・マフィアがポケットに入れる構図だ。
民主国どこにでもあることではあるが、程度問題だ。このクニから公金横領役人天国がなくならないのは、税金の使い道に対して当の税金を負担した国民が無関心だからである、これまた五流の中の世界の、贔屓目四流以下のガバナンスと言わざるを得ない。
そうなると、地震予知をことさら可能であるかのように誇大に公言する輩は、官製談合工事をカムフラージュするために、意図してやっているのかとも思う。
裸の王様防衛軍による、タメにするプロパガンダ、これもまた騒音の一つである。ああ、これは溜息、、、
なおダムについて、拙稿本シリーズのNo.9を参照されたい。
ここで突然だが、本日はそろそろ筆を収め、この続きは次稿再開と致したい。
予告のつもりで、一言。
6月は地震の月とするのが、拙宅の家典である。