KankyoーNo.17

*日照り・洪水を考えるー第17稿
このタイトルで書き始めたのは、この年が明けてからで間もなく半年が経過する。月のうちにきり良く20回で終稿したいと考えている。
初稿起筆の時、頭に浮かんだ身の廻りに起る不都合を一括して掲げ、各分節のテーマに置き、第2稿以下で趣くままにテーマを展開させた。
本稿のテーマは掲載順からすれば、日照り(初稿の
第14テーマ)となるが、ここでは洪水(初稿の第15テーマ)とを併せて論ずることとした。
併論するに至った事情はこうだ、初稿から6ヶ月の間に現前の気候が変調気味に推移し大気物理の知識がより身に付いたからである。
今年前半の天候は、春らしい春がないまま夏が来たようである、これを異常気象と呼ぶべきか?それとも単なる暦月との些細なズレなのか?
否もっと大胆に表現できそうだ、冬と夏とが1日おきか、3日毎か、1週間交替で行きつ戻りつするようになった、とまあ色々浮ぶ。
では、日照りと洪水とは、互いにどのような関係にあるのだろうか?
疑問を提起することは易いが、答の方は窮するばかりで見つかりそうもない。
もちろん世上流通する言説は多々ある。その説が耳になじむなじまないは別にして、そのほとんどが検証になじまないし科学的に検証することが出来ない。
つまり肯定することも否定することも憚られるところの単なる仮説であることが多い、しかしいずれの仮説も数%程度の妥当性を備えるようで、荒唐無稽とばかりに斥けられそうもない。
ここで急に頭に浮んだ、最も説得力のある?答はこうだ。
極端なワープだが述べておこう。
現代人は殆ど認めようとしないが、自らをカミと同位置に置いて久しい。
それでもって、日々の天候を全くコントロール出来てないことに苛立っているのだ。
本来文化や科学を神話のように扱うべきでない。だが、時々そのことを忘れて、カミのように振る舞おうとする、それが現代人だ。
さて、日照りと洪水は、同時であり、同地であり、同事である。と筆者は考えたい。
簡単に言えばこうだ。
地球表面におけるエネルギー収支を考えよう。
内部<=リソスフィア、マグマが働く岩石圏>に貯められた原始地球から引継いだ地熱と内部質量の原子核反応による放射熱とがまず考えられる。
しかし、これらのエネルギーは、宇宙空間から来る太陽エネルギーに比べると、悲しいほど差別され、殆ど考慮されて来なかった。
以上の2つでほぼ地球の総熱量になるが、地熱が占めるシェアは確かに次熱のランクでしかない。
だが、地熱は遠赤外線領域の恒常的熱源として、量の劣勢を補って余りある質的な優位を備えていると言うべきである。
総熱量のほぼ全部を構成する太陽エネルギーにはムラがある、夜と昼の温度差もそうだが、自然界の事象に備わる『ゆらぎ』に関して太陽もまた例外ではない。
日照りと洪水は、エネルギーのゆらぎに由来する。
地球の公転、自転軸の傾き、緯度、標高、地表面における植物の被服度などの差異が、大気の温度差とその偏在と時間差もたらす、よって起る自然事象である。大気が持つ固有の物理的性質は、その含有できる水蒸気量がその温度に比例することにある、霧も雲もそれに従って生まれたり消えたりする。
原始地球は、高温大気がもたらす荒々しい天候激変の日々であった。その荒々しさを長い時間かけてマイルドな天候、平均気温15℃が象徴する地表に変えたのは、植物の力であった。
原始植物は、長い間に海中で進化し、その種類と個体数を増やし、やがて地表に進出した。
そして、地球の陸面地表のほぼ全面を植物で覆い、砂漠だらけであった原始地球の時代から早い時期の地球時代へと、グリーン・アースに変えてしまった。
46億年と言われる地球時間の中で、グリーン・アースの時代は、日照りと洪水が最も少ないマイルドな平和な生物多様性全盛の時空であった。
その古き良き時代は人類の出現前夜まで続いた。
地球時間軸での大晦日、除夜の鐘を鳴らそうと鐘木に手を掛けた頃に、人類が当らしい種として現れ出た。
そして、たちどころに地表のグリーンが消え始めた、グリーンの後退した所には、カビのようにはびこる人間の活動の痕跡がある。
植物の後退は、大気温度を偏らせ、日照りと洪水の発生頻度を増やす。
人類が拓いた地球の姿とは、再び原始地球の荒々しい気候に戻そうとするものだ、個体数の増加と食糧生産のための営為は、ほとんどアダムとイヴの受けた仕打ちだ。グリーン・アースを失わせ、マイルドで平和な楽園を壊している。
以上が本稿の結論である。
先に述べたことに戻る、同事の由縁はこうだ。
日照りが多くなったからこそ洪水もまた増えるようになったのである。
大気温度は、陸地表面の砂漠などで上昇し、森林地帯の上空では相対低下する、標高と緯度に反比例する。海洋の上空では、陸地表面より低下する。
早い時期の地球の陸面地表は、ほぼ植物で覆われたグリーン・アース・エージであったと言う。それが失われたのは、人類個体の爆増、食糧生産農業の創始、金属の還元と利用による森林偕伐とにあることは、先稿と本稿で既に述べた。
森林が失われ砂漠になると、その上空の大気は上昇する。日照りと洪水が過激かつ頻繁になった最大の原因は、ヒトと肉食とペットの増加に応えての農地拡大にある。農地の拡大は、則ち森林の破壊である。
この因果応報は、天災ではなく人災にあたる。
では砂漠を緑の地表に戻そうではないか、乾燥してしまった土地に植林して森林を復元しようと励む一群の崇高な行動がある。
地衣類との組合わせをすることで、回復の速度を速める工夫もあろう。
だが、筆者は悲観的だ、おそらく達成不可能であろうと考えている。
「覆水は盆に還らず」が、真理だからである。
真理を、首から上にのみしまい込み、手や足に伝えなかった。これがヒトの愚かさの証明である。
過去の誤りを消し去ることが出来るのは、ヴァーチャルな電子計算機の中だけだ。コンピューターを操作するヒトが費やした時間は、戻らないが、、、しかも現実界はケーサツやカミ頼みだ、過去の失敗を消去させることは決してできない。
よって乾燥砂漠の復元は不可能だ、このことを踏まえた新しい動きがある。太陽をさえぎる雲が無いことに着目して、太陽エネルギー発電所を立地させる壮大な構想のことだ。
これは、あたかも北極圏域にある豊富な水と地表高度差に着目した水力発電所が立地することと好対照である。
捨てるカミあれば、拾うカミありと言う。砂漠もまんざら捨てたものではないようだ。
次に上述した、日照りと洪水が同地としたことに触れる。
ある意味、このことが一番納得しがたいと感ずる人が多いかもしれない。
大都会に住む人たちは、自らは日照りも洪水も無縁だと信じ、更に日照りの地に洪水、これまた無縁と思っていることだろう。
彼等の日常は、水もガスも電気も指先一つで立ちどころに眼の前に実現する、ウーン天国である。
おそらくそれが文化であり、文化とはつまるところ人類による自然制覇または反自然の達成だとする見解、日常当たり前のことを天国とは大袈裟過ぎるとの怒り、もちろん筆者も承知している。
これまでの技術史がそのような方向で進化してきた。遺憾に思うが、過去は過去として如何ともしがたい。
都会人が眼前に見ているものは、産業社会が築き上げた社会インフラの恩恵であり、目新しい便利さに安易に飛びつく経済の仕組、造り出される大量の偽物の横溢である。
だからこそ、当面の人工現象でしかなく風前の灯しび的存在なのである。指先一つで未開人の夢が、まるでアラジンの魔法のランプのように実現する、そんな願いが叶えられる事に永続性はないと知るべきである。
現代の人口密集する大都市、その8割が大河川の河口または下流流域にあると言う。
それが現代の地球のメジャーな姿である。
しかも大都市は、廻りに農地(近未来の砂漠または準乾燥地)があるのみで、十分な広さの湿潤のある森林に囲まれてはいない。
大気温度は確実に上昇の過程にあり、降水量のもとになる大気中水蒸気量はかつてないほど増加している。昨今のゲリラ豪雨の主な原因はそれである、厳しい洪水と酷い日照りが併在し偏在している。
既成の築堤や防水壁で、近い将来起るであろう洪水は防げそうにない。
日照りもまた、エアコン設置が常態化している都市生活の実態に照らせば、説明不要の客観的眼前的現実である。
これで日照りと洪水が近い将来同地で起るであろうとする背景だ。
最後に、3つ目の同時が残ったが、これ以上説明は要らないようだ。
この東西に薄い日本列島の脊梁山脈の風上と風下とで、晴天と雨天とが同時併存している。夏と冬とでは、日照りゾーンと洪水ゾーンとが互いに入れ替る。
カミたらんとする安易な願望が、より深刻な事態を足下のグリーン・ボールにもたらしてきた、果たしてどれだけの人が、先住民の智慧ある賢い生き方に目覚めることであろうか?
覆水が盆に還らないのは、自然の事象がおそらくエントロピーの法則に従うからである。先住民の智慧とは、エントロピーの実践にこそあるようだ。