KankyoーNo.16

放射線を考えるー第16稿
身の回りにある不都合を環境の問題と捕え、初稿でテーマを列挙し、第2稿以下で各テーマについて思いつくことを論じてきている。
本稿では、放射線洩れを取上げる。
放射能宇宙線、電磁線、太陽風など、コトバは異なるが、いずれもエネルギーの一態様であって物理的に同一である。何故コトバが異なるかといえば、それぞれが別々に発見され認識されてきた自然科学史の経過が如実に反映されているからだ。傍証として述べる次のことも、その効果があるかどうか悩ましい。
化学と物理学との関係だ。
一方は物に係る現象を定性的に説明して終わりとする立場であり、他方は定性に加えて定量化まで踏込もうと拘った姿勢で、物理学は化学の壁を越える過程で後世自然に到達した新次元であるとしか言えない。
どう考えても、どちらもコトバほどのたいした違いがあるとは思えない。それはこういう理由からだ.
物理学まで踏込んだことで、人類の知識は飛躍的に拡大した。だが、その結果全ての疑問が解明されたわけではなかった。新たに蓄積された知識なり科学法則を遥かに上回る、新たな疑問なり未解明の闇が更に積み上がっただけだった。
要するに科学は、ほぼ永久的に部分知の段階で推移するしかないのである。もし仮に、あなたの周囲に何でもスラスラ答える学者が居たとしたら、それはホンモノではない、単なる現代の錬金術師でしかない。
筆者もある経済学者の名を、たちどころに挙げることができる。大臣の職を引いた後に復学した有名人だ。この人の講演を聴きながら思った。経済学は今や常識人の科学だという事、何の効果も合理的論考も無い点で常識経済学と呼ぶにふさわしいと。
あそうそう、今頃になって基本的なことを言ってないことに気がついた、
化学は分子レベルの科学に対して、物理学は原子レベルの科学である。これは、要するに化学が五感に依存して経過・反応をフォロウできるのに対して、物理は基本的にストレートには見えないミクロファインの領域を対象とする難解さがある。
大づかみで言えば、19世紀の半ば頃から、眼に見えない「電気エネルギー」をハンドリングする科学の時代になったのである。
さて、放射線である、この物理現象の体系的理解は、ノーベル賞と共に始まった。素人受けのキャッチフレーズだが、しばらく続けよう。
第1回のノーベル物理学賞は、1901年かの有名なレントゲン(1845〜1923、ドイツ、物理学)に与えられた。
人体を透過した電磁波を乾板に感光させて、不可視の内なる宇宙を可視化させる魔法を、始めて体系的知識に纏め上げた人物群の一人だ。
この放射能は、ヒロシマナガサキ以後の現代では、さほど目新しい科学知識ではないが、原爆投下を遡る約50年<技術史における50年展開説がここでも成立つ>前には、新発見として世間の耳目を騒がせた。
発見が新しいだけで、エネルギー放射は、宇宙創世以来の自然現象であることは言うまでもない。
だが、新発見に内在する不幸な側面は、すぐに一般が知ることにならなかった。放射線照射や意図せぬ放射線洩れが生命体と遺伝子システムに与える悪影響は、原爆投下が引き金を引くことで周知となったのかもしれない。
欧州社会ではチェルノブイリ事故がそれに当る。生命を破壊するか、複雑な奇形を催すことで、大いなる不幸は復元不能な状況で半永久的に続くのである。
ここでいささか脱線して、ノーベル賞についてコメントしておきたい。
この国では絶対的かつ画世的な評価を得ている特別の業績表彰だが、いつまでもそのようなアナクロニズムに浸ることはいかがなものであろうか?
この国で第1号の受賞者が出た時のある意味特別な時代背景を長く引きずることは、精神年齢14歳と酷評された社会的未成熟から脱却しないままであることの反映でしかないからである。
無条件降伏、外国駐留軍による屈辱の中で、不意にさした輝やきをメディアが膨らませた。言わば大本営発表スタイルの戦後版だ、こよなく乗りたがる軽佻浮薄の国民は、バスならぬ口車にわっと飛び乗っただけのこと。
ありていに言えば、筆者はノーベル賞が当該研究における唯一の存在とも、最初の功績とも思っていない。
単に第1号研究者を顕彰するのであれば、戦前のこの国にも受賞資格者は数人いたはずである。因みに紙幣の肖像には採用されてない、無名の存在?、、、
科学や軍功の顕彰は、どこでもどんな時代でもワンノブゼムに対して行われる。
その点で、戦前この国に受賞者が現れなかったのは、通信網の未整備と地政学的孤立、言語や西欧学界の閉鎖性など、諸々の壁があったためと言うべきである。勿論、国内にも横並び統制という「いじめに近い言われなき握りつぶし」があり続ける。
個人の業績に光が当たることを嫌う国民性は、如何ともしがたいものがあるのだ、、、
さて、放射能に戻ろう、放射線科学が確立したのは、大雑把に言って1900年の前後各四半世紀の50年間であった。
放射線科学貢献者の第1を、あえて挙げるとすれば、キュリー・ファミリーである。
夫妻親子でこの大賞を複数回も受け、科学現象発見提唱者として固有名詞を残した希有な例と言えよう。
レントゲンの紹介のところで、乾板上に感光と書いたように、エックス線は眼に見えない光、エネルギー現象である。
それまで部分的に独立して解明されていた個々の科学的成果が、放射線科学の確立によって、一つに体系化された。冒頭のコトバ群、風も線も粒子の波もともにエネルギー放射の一側面であったのだ。
オーロラの発光、ヴァンアレンのベルト(地球を取巻く放射線帯)、日本観測隊が発見したオゾンホールなども太陽エネルギーがもたらす派生的物理現象だ。
いずれも地表に暮らす生命活動体から、太陽エネルギー放射に含まれる有害能を除去するフィルターの役割を果たしている。これらのフィルターが存続する限り、太陽系の中で現在のところ唯一生命体の存在が知られる地球は、そのものが一個の生命体として<ガイア理論による>引続き存在し続けられるであろう。
だが、この命題は無条件に成立する訳ではない。想い浮ぶ条件を3つだけ掲げよう。
まず第1は、人類が保有する地表の太陽を放棄すること。次に、人類が個体数の膨張を辞めること。最後が、人類がその欲望の赴くままの無軌道で、地球破滅に結びつく愚行を行わないことである。
第1は、地表上に人工的に造り出した太陽エネルギーをその目的の如何に関わらず廃棄し、以後永久にこれへの依存を封印することである。
核分裂核融合反応によるエネルギー創出は、あらゆる点でマイナス面が多過ぎる、しかも技術マターに拠るクリアーは将来とも困難であると思われる。コントロールの失敗による代償は、あまりにも大きい。
やれ平和利用、核の傘による戦争抑止などと言うも、錬金術的口上、間に合わせ放言でしかない。
第2の人口爆増問題は、言うは安く行うは無上の難しさを伴う大きな課題だ。適正規模を論ずべきではない、正しい答の検証が難しいからである。もう適正規模を超えて、人口過剰段階にあるとも言える。
コロンブスに始まる超遠距離移動の事実が、その証左であると言えないこともない。仮にもしそうだとしたら、もう既に適正規模100倍超の個体数に達していることになる。
最後の愚行問題は、あまりに多岐に及んでおり、一々掲げることは出来ない。
先のコロンブスの多数の愚行から超遠距離移動を抜出し、これを一代表例とし、筆を置くことにしよう。
オバマは新幹線建設の構想を表明した。全面的に評価は出来ないが、飛行機をやめ、飛行頻度を減らす点で賛成できる。
それほど飛行機の環境破壊は質量とも最悪なのだ。
だがしかし、進行中の情報革命は、遠近を問わず、ヒト・モノ・カネなどすべての人間活動由来のサムシングを動かさない方向に動いている。
その意味でこれからの新幹線建設は、将来無駄になるインフラストラクト投資を指向しており、単なる失業対策事業、短絡的な場当たり経済政策に過ぎない。
最後にもう一度言う、
キュリー・ファミリーは、実験物理学者一家として、現場にあったが故に、放射線被爆がもたらす悲劇から無縁ではなかった。
人類は、過去の体験を無闇に切出して部分知にしたり、恣意に忘却、埋没させてはならない。と、つくづく思う。