閑人耄語抄No.48

*No.48 シャクヤクの  花の下にて  休みたし
〔自註〕 庭のシャクヤクが咲こうとしている。花と口で言うよりも華と毛筆で書いた方がぴったりする雰囲気の豪勢な花姿である。漢字では芍薬とあるから、薬効もあるに違いない。
昨今の気象事情を考慮せず想念の中の季節感に立てば、暑からず寒からず日も長く過ごしやすく、人生の終末を想い描くのにふさわしい時節である。シャクヤクの花を見上げながら、静かに旅発ちたいものである。
人の世の厳しさは、始まりが必らず身内とともにあるに対して、終わりの方はそのことが定かでないことにある。
仮に立会う人が居たとしても、行き先はたった独りで行く未知の旅である。にもかかわらず、ただただ静かにありたいと想うばかりである、、、、
西行は、縦横無尽に生きた希有な人らしい。
出家者とは、タテ構造の人間社会の階段バリケードをやすやすと乗越えられるバリアーフリーシンボルであったようだ。加えて彼は出自が佐藤であったから、全国各地に親類縁者がいてヨコ移動の便宜を受けやすかったようだ。あの厳しい時代に孫悟空のように自由な天地を踏み歩いた傑物であったと考えたい。
この句に出て来るシャクヤクは、この数年の間に何度か移され、今咲く場所は3度目の地である。標高800メートルの地から20メートルの地に移された年は、蕾のままで終わり開花に至らなかった。今年は期待に応えて咲いてくれて安堵している。
なお、この句を作るにあたり、西行の歌を踏まえている。
 願わくば  花のもとにて  春死なん  その望月<もちづき>の  如月<きさらぎ>の頃
 としたけて  また超ゆベしと  思ひきや  いのちなりけり  小夜の中山<さやのなかやま>
僧形の西行を現代から想像し、その境遇を共有することは難しい。通行手形を管理し葬儀に関与する以前の仏教界は、「心なき身にも あわれ」の精神救済についてストレートであったことであろうか?
シャクヤクの花の下には、何も要らない。残された人がそれで気が済まないのであれば、小石の一つでもあればよいだろうか。文字の書かれた人工石なんぞ言辞の外である。