KannkyoーNo.15

*大気汚染を考えるの続編ー第15稿
身の回りにある不都合を初稿においてテーマとして掲げ、第2稿からそのテーマに関して思い浮かぶことを論じてきている。
本稿第15稿では、急遽前々回のNo.13に引続き大気汚染を取上げ補充続編とすることとした。
急遽とする背景はこうだ。散歩していて音を聞いた、右の頭の後ろ辺を見上げた、着陸パターンで飛行するエアーライン機が飛んでいる。南風の日はいつものこと、と思いつつ正面に向き直るが、おやっと思い直し、もう一度ゆっくり上空に眼をやる。何か変だ、飛行機は黄金色のもやの中にあってロゴサインがよく見とれない、空全体がぼうとしている。
そう言えば朝からそんな様子だった。
アイスランドの火山噴火の余波か、それとも、例によってモンゴル平原からの黄砂が飛んでできているのだろうか?
アイスランドはヨーロッパに属している、最も西の端に位置する孤島である。西の端とは、地理区分としてのヨーロッパの西端と言う意味である。従って西隣りのグリーンランドは地理区分としての北米ゾーンの東端の島になる。
日本とアイスランドとの直線距離は概算8千キロだから、空路利用では北米大陸USA西海岸の諸都市より近い。もし読者の中に腑に落ちないと違和感をもたれる方がいたら、その方は重度の地図依存症に陥っている懸念がある。
まず8千キロなるデータを疑うのも一方法である、
個々人の頭に描くイメージは、在学中は教育者の影響を受け、社会に出てからはメディアの露出量やプラスやマイナスに色付けされたプレゼンティーションに毒される。長期間に形成すされる心象は、当人が気付かないうちに出来上がってしまう無意識のマインドコントロール状態だ。その累積が国民共有の常識となる。
その常識からすると、アイスランドは関心の薄いどうでもよい国、そして寒くて暗そうなダーティーイメージ、よって、近くはない遠くにある国となるのである。
その点で、アイスなるネーミングに由来する言われなき不利を背負っている、逆に現実を離れ意図的に詐欺レベル?のネーミング法を採られたのがグリーンランドだ。命名におけるアイス・・・の反省から、後に見つけたグリーン・・・を捏造したのであろう。
アイスランド談話に逸れてしまったが、実はもう一つ行っておきたいことがある、以上がより社会心理的要素であるに対して、以下に述べることは、より視覚妄想的である。
壁に張ってある地図や製本状態の地図がヴァーチャルであることを、誰しも忘れてしまう嫌いがある。大雑把に言えば、これもまた身の廻りの不都合の一つであって、仮想のものを事実と想い込む癖は妄想であり、危険性を伴っている。
時にこれらの地図は毎日のように眺めるから、ついつい警戒心を怠る、それで無意識に四角四面な肩こり人間になってしまうのだ。
人間は、知らず知らずのうちに無意識のまま、ある凝り固まった見方に収斂して行く存在である。
その事を認識し修正することは、自ら肝に銘じた者だけが果たせる。
そもそも地図と呼ぶことが誤解を招くもとだ。球形の地球をある想定のもとに平面化したものだから、正しくは地形概念図とでも呼ぶべきである。
ヴァーチャルを忘れてリアルと想い込んでしまう重度の地図依存症から脱する方法は、地球儀を愛用することである。
もちろん、地球儀も厳密に言えばヴァーチャルなものだが、四角性肩凝り症を免れやすい、より軽いヴァーチャル度である。
さて、本題に戻る前に、四角性肩凝り症の一例を簡略に紹介しておこう。
日本人の大好きな発想である、やれ中央とか縁辺とか、地方、田舎などの言葉を多発し、それが事実であることを疑わない価値観のことである、筆者の造語である。因みに筆者は、世相を斜め串で突こうとする傾向無しとしないが、世に言う心理学や社会病理の研究者ではない。
さて、地球儀を前に置いて、どこが世界の中心で、どの辺が端っこかを決めてもらいたい。四角な地図の上で容易にできたことが地球儀の上では成立しない、つまりそのような区分や評価が存在しないことに、たやすく気がつくことであろう。
この国の多くの人が抱き、基層に根強く居座るところの所謂常識とは、つまるところが中華思想に由来する偏見であったのだ。球形には真ん中も端っこもない、、、
オリンピックのシンボルマークは五輪である。それもまた欧州、南北アメリカと地理区分をあえて設定することを前提にしている。そこにもまた陸とりわけ大陸に重きを置いたことで、海や水面を軽く見るか無視している姿勢がみてとれる。
偏っていると言わざるを得ない。その事を気付かせるもの、筆者の場合は映画だ。何世代も海で暮らす水上の民の存在を知らせてくれたケヴィンコスナーの映画「ウォーターワールド」だ。
未来SFの中には、地球の過去や現在が比喩的に描かれていたような気がする、制作者の意図するものは結構奥が深いようだ。
さて、散歩の話である、気の向いた時に始め、いつどこででもやめる、それが散歩なのだという。この日は、あまりにクシャミを連発し、鼻水は出るわ、眼がゴロゴロとして不快なので、不本意ながら途中で切上げて、本稿を書くに至った。
素人考えだが、おそらく黄砂が原因だ。観測機器を持たないので確言は避けるが、今年は殆どの晴れた日に黄砂の匂いを感ずる。屋根の色が濃いクルマは、その証拠を乗っけて走っている。
この数年黄砂の発生頻度が増え、その発生量もまた増えているそうだ。これは大気観測の結果として公表されているが、その原因は例によって最近の地球の異常な乾燥化がもたらしたものと言われる。筆者はそれに加えて、この國で数年前に起ったカシミヤコートの販売好調との関連を指摘しておきたい。カシミヤの原毛は、モンゴル産出である。需要増に応えるべく羊の放牧数を増やす事態を招いたのだ。牧草生産はもちろん気候変動に従うものだが、他方で適正規模を越えた牧羊による食草は、一挙に地上の牧草被服を破壊した。気候変動の方は自然現象だが、過放牧は人為的原因による環境破壊であり、どちらもモンゴル平原における植物の復元力を失わせ、黄砂増加の有力な原因となるのである。
これは風吹けば桶屋が儲かる式の、筆者が提唱する哲理経済学による立論だが、緻密にフォローすれば、物資の移動をトレースすることでエヴィデンスを示すことが出来ると考えている。社会科学の証明は、100か0かではない。気候変動の影響による不可避の環境破壊のうちの何分の一かが人為的背景による回避できるそれである。このことは、あの悪名高い南米の熱帯雨林喪失と、この国で急激に増加したペットとの間にも、容易に見えない流通ルートがあることを指摘しておきたい。隗より始めよである。
さて黄砂そのものはすなわち公害源であろうか?
公害測定器ならぬ筆者のクシャミ連発くらいで、とやかく言うわけにはいかないが結論を急ごう、実は単純に黄砂と言い切るべきでないのだ。黄砂誕生時つまりモンゴル平原を旅立った時は、たしかに自然素材による飛散性の砂埃の塵だが、日本列島からはるかに遠い日本海上空に出る前の大陸沿海部付近で、その上空に大量に漂う化学汚染物質を取込むのである。
南巡講話により始まった拡大策が奏効して、中国はこの約20年著しい経済躍進の途上にある、重化学工業が盛んだが、その経済活動を支えるエネルギーの発電プラントもまた公害源である。発電所の80%が石炭火力だと言う。圧倒的に石炭専焼方式が多く公害防除の装置を欠くらしいから、日本流にいえば一時代前の意識ならびに装置と言うべきだ。霧のロンドンの稿を憶い出してもらいたい<=2月22日、第11稿参照>。
列島の卓越風は、偏西風と呼ばれ、風上は北西方向だ。この20年くらいは、石炭燃焼微小残滓つき化学毒性黄砂が、秋から春にかけてやって来ている。まさに招かざる来塵(らいじんと読む)である。
日本は、風上を選べない、風下の立場から逃れられない、そのような定めなのだ。
最後に、大気汚染の稿の締くくりとして、抑えるべき基礎的キーワードを簡略に紹介しておきたい。
第1は、映画「地球交響曲
第2は、ガイア理論
第3は、ジェームズ・ラヴロック(1919〜)英国生まれ、生物物理学者、ガイア理論の提唱者
第4は、ECD<大気中に含まれる微量の化学物質を捕獲する電子式の検知器。最大長10cm程度>
第5は、著書「沈黙の春
以上5点を一括して列記する、既知の方は以下を読むことはない。
地球交響曲ガイアシンフォニー)」は、1992年龍村仁監督による日本映画。ドキュメンタリーシリーズの第1作であるが、ジェームズ・ラヴロック氏のガイア理論が製作動機の根底にあるようだ。なお、ラヴロック氏の出演は、第4作「地球交響曲第四番」以降である。
次にガイア理論だが、その要点は「地球は一個の生命体である」との指摘にある。ラヴロック氏が最初に案出したのは1960年代と言われる、環境問題のシンボル的中軸構想で、生命の存在や生物多様性の維持が地球が持つ環境のホメオスタシス(恒常性)と相互依存の関係にあることがほぼ確実視される。なお、ガイア=Gaiaは、ギリシャ神話の女神、大地を指す。
J ・ラヴロックは、1957年にECDを開発し特許を取得した。約50件の特許を有する独立自存型の科学者、ECDを調査船シャックルトン号に搭載して世界周航を敢行し、殺虫剤・農薬由来の化学毒性が世界中の大気に残存することをデータをもって証明した。自宅敷地に環境回復トラストを開設するなど行動派のエコロジスト。
沈黙の春」1962USA出版。邦訳は新潮文庫(1974)など、著者はレイチェル・カーソン(1907〜64)=海洋生物学者
カーソン女史は、ラヴロックのシャックルトン号調査成果を踏まえて執筆したと言われる。
以下は蛇足だが、ラヴロックの主著に「地球生命圏」「ガイアの時代」(以上邦訳、工作舍より) 「Homage to Gaia」「the Vanis-hing Face of Gaia」(以上英国版)などがある。
なお、化学物質の製造は、19世紀半ばからと言われる。人類初の合成染料アニリンとの出逢いは1826〜56年のことだが、近代科学工業の勃興、強大国ドイツの躍進、大気汚染・産業公害・労働衛生災害などの始まりをも象徴している。
最近、静脈産業なる耳慣れない新語があるが、その語は誕生にのみ関与し(=動脈に当る)、自らが産み出した製品がどのような週末を迎えるかを全く考慮しない事業体・産業界を非難している。近現代産業の基本的欠陥は、化学工業者の社会的責任の欠落に由来している。最初から今日までパイオニアであり未だにチャンピオンの地位を保ち続ける水俣病のことを憶い出してもらいたい<=4月7日、第12稿参照>