Kankyo-14

*音を考える-第14稿
身の廻りの不都合をまず初稿でテーマとし、その掲げた各テーマをその後順次取上げ思いつくまま論述してきたが、本稿のテーマは雑音・騒音である。
耳には蓋がない、眼と口には蓋がある。身に備わる五つの感覚が一律一様の仕様でないのは何故であろうか?
もっとも安直な回答は、創造主すなわち神の思し召しとするものであろう。信仰の深さの度合いにかかわらず、議論が紛れない点において最も説得力のある答のように思われる。
では、安直でない回答にどんなものがあるだろうか?あるにはあるが、科学的合理性に難があるものばかりで腰が引ける。
ここではコトの成り行きで、もっともらしい答を一つだけ示そうと思う、
自然界における騒音は、人類とともに始まった。ヒトが出現する前は、騒音そのものが存在しなかったに違いない。
人類がスピーカーを発明する以前、不快を催す音色も不安をもたらす音質も憤慨させる音量も存在しなかったのだ。とする答である。我ながらほとんど正解だと思っている。もちろん科学的合理に立つ説得は望むべくも無いが、らしいことを挙げておこう。生き物の世界には、ヒトのように不特定多数に対して声を発することは無いのではないか、つまり1対1しかないクローザーコンタクト、それが生き物の世界の常識だから、大声はもとより不要で、それを踏まえて耳に蓋もまた不要であるのだ。
自然界では不要なものは、たちまち小さくなりやがて消える運命だ。それが進化の神髄でもある。
最近はイヤホーンに見える消音機があるそうだ。確かに地下鉄の走行音やら通勤混雑の中の悲鳴なのか怒号なのかをも含めて、聞きたくない音が、狭い空間に溢れている。電池で動くコンパクトな消音機が携帯できれば、深山の中で座禅の心境になれるかも、、、、
車内放送もまた間違いなく雑音である。自分が知りたい情報はごく僅かである、我が行き先の事のみを手短かにやるべし、他の10分の9は耳障りでうるさい。
その点、その昔体験したスイス国鉄の車内放送は極端であった。インターラーケンからベルンまで乗った。各駅停車であった。車掌の姿は見てない、終着も始発も目的地到着予定時刻も知らない、それでも行って還ってきたから今日があるだけ。彼の地における言語を含めて現地事情を事前に全く調べずに、とにかく行ってみるとまあ、そのようなハプニング願望?が無いこともない。
さて、窓の外に家並みが少し増えてきて、心もち加速を控えるような走り方になった頃、「ベルン」、正真正銘の一声だ。事前に予告の機械音ポンポンとか、スイッチを入れた時に聞えるあの電気雑音のガチャガチャすらない。一期一会の真剣勝負とでも言おうか、、、
先日関東圏の高名なフラワーパークに入園した。盆と正月とお祭りが一挙開催となったような人出が、関東圏では平日に起る、とまあ大袈裟に言えばそんな感じの雑踏だ。
とても花を愛でる心境にはなれなかった。平常心にはなれないのが未熟者、かてて加えてBGMが、絶え間なく流されている。まるで突如異星人のフランスデモに紛れ込んだようだ。
音に関する苦情は次が最後。
筆者の住いは空港にやや近い。365日24時間スクランブル待機の状態を保つ軍民併用空港である。
時に風の吹き具合でアプローチする航空機が低空飛行するから、たびたび短時間のジェット音が聞える。それはそれでよしとして、4月の上旬のある早朝のこと、それも4時台に長い時間、大きな音を聞かされた。
おそらく地上でエンジンを吹かしているのであろう、いつもと異なりいつまでも音源が移動して行かない。
まるで若者?の深夜暴走だ。欲求不満の若造だろう、狭い1ブロックの街の中を、わざとマフラーを壊した単車で、12時頃から始めて何度も周回する、デモンストレーションねらい?の暴走騒音だ。
空港発源のこの手の大騒音はかつて聞いたことがない、きっと年1回あるかないかだろう、航空自衛隊としての存在主張なんだろうか?司令官の更迭による着任セレモニーかよ?待てよ、まさか緊急発進か?Northern Koulrea空軍が徴発飛行か?音源が移動しないからそれはないか、、、
音に頼っての自己主張、智慧のないものの情報発信、そうそうその昔ラジカセ馬鹿売れ現象があったよ、海や山に大汗とともに大きい音を担いで行く一行が、それが今はラジカセが消えてペットに入れ替っただけ、同類の浅智慧シンドローム、人類特有の理解しがたい心理だ。
ヒト以外の動物は、1:1と前述したが、つがいの間でも、つがいが成立する以前の恋人募集状態でも、ささやきこそ効果があるのだ。ま逆に大ボリュウムを発して、不特定多数に向けてプロパガンダ調で迫るオスが仮に居たとしても、そんなオスに寄り付くメスはおそらく皆無であろう。
聞えにくいささやきを聴き取ろうとして近寄り過ぎて毒牙に堕ちる、それが生物種保存の法則の要諦なのではないだろうか?
母と子の間もそうである、コロニーの雑踏騒音の中から我が子の声を聞き分ける繊細さを持つ母ドリだけが、自らの遺伝子を後世に残せるのである。子の発する声の音量が決するわけではなかろう。コロニーを形成しない肉食動物の場合声高と無駄口たたきの子は、まったく生き残れないことであろう。
最後に、前回の大気汚染の項で触れた電気自動車と騒音の問題を述べる。
電気自動車は、機器構成において動力伝達機構を排除する方向に進むことであろうから、エンジンルーム、ロッドバーが不要となることで、有効スペースの拡大、車両重量の軽減化が図られる。その他に、モーターを車輪の内部に組込むことで回転メカニック発の雑音も消せる、これで内燃機エンジンのオナラと並ぶ本来不要な雑音が二つも消える、快挙だ。
とまあ電気自動車は一段と静かになる、優れもののようだ。序でにこの電気自動車への移行を機に、クラクションも撤廃すべきである。となると、残るは風切り音くらいのもの、、、、
と思いきや、役人は無粋だ。
2009年10月17日の新聞に、騒音発生推進法がつくられるとの記事があった。メディアの扱いは小さく、あくまでも小さい扱いで、
ハイブリッド車にエンジン疑似音発生装置を義務づけたい、、、
たしかに、ハイブリッド車の走り始めは、モーター走行方式に拠ることが多い、よってオナラ車を前提とする只今の常識に立てば、無音走行は想定外の驚ろきを招きかなない。はてさて、眼の見えない人や耳に蓋のある人はどう守るか、などなど。
でもそりゃ、現状と既得権擁護の原則に立ついじめだわ。
本末転倒の新法が用意されるなんざ、なんと陰湿ないやな社会であろうことか。
ここで言う現状とは、この国の道路政策の無策のことだ。
歩道と車道の渾然とした未分離の状態を解決することが、本来採るべきまっとうな道路政策である、歩道から自動車や自転車をすっきり締出して、弱視者や難聴者を護る歩行者だけの道にするべきだ。
陰湿ないじめとは、まともなことを成し遂げた技術者に対する謂れの無い法的規制を押付ける無理の事を言う。
自動車が低騒音または無音で走ることは、人類史・技術史上における快挙であり、間違いなくプラスの評価を受けるべき科学的合理性の達成である。
それを一片の不都合理不尽極まる悪法新設をもって葬り去るべきでないのだ。
騒音を促すことを良しとする考えの役人の見識を疑いたい、どうだ、みんな、そう思わないか?