Kankyo-13

*大気汚染を考える-第13稿
身近にある身の廻りの不都合を思いつくまま掲げ、見解を述べ始めてもう5ヶ月目に入る。第13項のテーマは、大気汚染(因みに初稿の項目一覧の11番目に該当する)である。
大気汚染とは、簡略に定義するとこうだ。人体を含む生きとし生けるものに有害な物質が空気の中を漂う状態であり、その空間域に身をさらす不都合が避けられない状態を指す。その不都合は人類が火を扱う時から始まっている。
火を扱うためには、最小的に二つの前提が必要だ。
まず、「手の革命」である。手は、二本足歩行が常態化すると当初の用途を失った。手の活用を構想し、用途を開発する過程で、頭脳と五感が偏りを増した。これを進化というが、手の器用さは、視覚脳と指の運動機能との相乗的成果である。
次なる前提は、「おそれの克服」である。火に対する虞れを持たない人間も生物種も本来存在しないであろう。人類は、手を格段に器用に使う事で火を上手にハンドリングしている。そのことは、則ちおそれを払拭したことを意味しない、おそれが幾分軽くなっただけのことであろう。ただし、おそれを知らない一部の人や生物種は確実に存在する、近未来の想定が出来ない頭脳構造の持主とか、ネガティブ・ストーリーが全く描けないドリーマー達だ。ここでは決して血液型が妄想する個別的性格のことを指していない。単に迂闊か鈍感か、それだけの事であろう。
飛んで火に入る夏の虫もその類であろう。あてにならない伝聞記憶だがオオカミもまた火を怖れないとか、どちらも単純に暗い所より明るい場所の方を求めて行動し、不測の事態として身を滅ぼす。それこそ後の祭りだ。火遊びの語源の由縁かも、、、人類は、ホタルに遅れる事おそらく数十万年?やっと21世紀の初頭に熱を伴わない光源としてEL(エレクトロ・ルミネッセンス)を実用化しようとしている。
その昔、人の祖先は、太陽の直射、強い雨と風とを避けて、洞窟に居住するようになった。
さらに洞窟の中で、照明と採暖、調理をするために火を使う。その過程で、人類は体毛を失う方が快適かつ生残りやすいので、「裸のサル」に変身し固定したようだ。
ここでの進化は、決して質的な向上や量的な拡大つまり進歩の意味を含まない。単にそこにある環境へ順応しただけの意味しか無いことを強調しておきたい。霊長類と呼ぶに相応しい聡明さを備えた生物種とは認めがたい。なお、本稿の目的ではないので、これ以上進めない。
やがて、焚き火の痕、火の中から、偶然に熱還元された金属が見つかる。次に手と火を使って鋭利な形に加工成形して刃物を発明した。金属との出逢いは、技術への過度の依存の始まりであった。ここでの過度とは、環境破壊に向う最短ルートの打開を指すが、その予想される究極のゴールは、人類の破滅とこの緑溢れる地球が原始地球に戻る事態である。鋭利な金属製刃物のオーバープレゼンスは、則ち森林破壊を招いた。これは、気違いに刃物と同義である。その不幸がもたらした結末は、まず、木材の活用としての住宅建築。次に伐採後に出現した空き地を利用しての食糧生産の開始であった。
前者は、住宅革命という。洞窟からの脱出をもたらした。洞窟は自然のものだから、ニーズに対応するうえで制約がある、資源の有限性である。その点、木造の人工住宅は、森林を犠牲にする事で、たやすく供給される。そのたやすさが、技術そのものに内在する破滅の道である。人類は、自らの欲望をコントロールするすべを知らない「未熟な頭脳のサル」でしかない。冷静に考えれば、森林資源もまた有限な自然なのだが、それに気がついている人は未だ少ない、それが破滅の道とする由縁だ。
後者は、農業革命という。森林を消滅させた土地に、人のニーズに合う植物である野菜を育て、食糧となる動物を飼うこととした。
森林は一見無価値に見えるし、栽培や放牧は土地の有効活用であって、価値の増殖つまり生産活動であると思われている。そのような側面がある事を一律に否定しないが、それは則ち現存の経済学の限界でもある。生態学の知見を欠く社会科学は、破滅を導く学問であるとされる主な理由であろう。『哲理経済学』の構築へ向うべきときである。
住宅革命と農業革命とが相まって急激に進んで、人類個体の爆発的増加を見た。人口爆増は、ゆるやかに認識されつつある、最大の困った事態だ。そして人口の爆増は、生物多様性に対する挑戦的敵対である。ペット個体の爆増も、また生物多様性の維持にそぐわない。
では生物多様性は、どこにあるか?
大都会には、まったく乏しい。農村地帯に少しあるが、そこに住む人間の好みにより恣意的に歪められていて、多様性に遠い、危うい緑だ。
最も生物多様性が備わる場所は、森林であり、特に熱帯雨林と言われる。そこに生物多様性が維持されているのは、そこに人類が存在しないからである。
そもそも植物こそが、太陽エネルギーを利用できる生物である。海中から地上に進出して、無機的な岩だらけの地表に土と砂を造り出し緑に変えたのは植物である。動物は、植物と同じコピーメカニズムである遺伝子を持つ生物だが、自ら太陽エネルギーを利用できる能力を全く備えない。つまり、植物は緑の地球の唯一の生産者であって、動物は植物に依存する、ただの消費者であると言われる。
人口の爆増と欲望実現のための過剰な経済行動は、生産と消費のバランスが崩れることだ、消費過剰=浪費の膨張は、生物多様性を損ね地球から緑が失われて、原始創世記の地球、石だらけの無生物状態に戻る危険をはらんでいる。
さて、大気汚染である、火を使うと煙が出る。煙は不快かつ有害である。そこで煙突を考案した。より広い空間域に放出できるようになった、それが煙突の効用である。
だが、それはただ煙を大気に拡散して、狭い空間の煙を希釈するだけである。
煙を元から無くしたり発生源で減らそうという発想が無い。せめて減らせないなら除去(=拡散させず集めて圧縮・固定すること)しようとする工夫がまた欠けている。少なくともおよそ30年前まで、人類は煙突一点張りでやって来た。
それが人類のやり方である。根本的解決には、ほとんど立ち向かわない、その場凌ぎ、先送りが人間の常識的な流儀だ。残念だが、何と安易な事か。それが大気汚染の真の原因である。
その安易さから脱却する奇特な人が、稀だが、実は居る。そのことを、いささか机上図式的に回りくどく述べてみよう。
大気汚染と生存上の不都合との間の因果関係を、医学疫学的に証明する事はとても難しい。
まず、大気に含まれる物質の種類と含有量と、その時系列的変化を科学的データとして抑える必要がある。
次に、生物体の医学疫学的不都合を発見し原因物質を探り出し不都合と原因物質との因果関係を証明するための科学的データを抑える必要がある。
最後に、そのことを学界や社会に公表して、賛同を得る必要がある。
以上が考えられるステップだ。
では、現実の場面ではどうか?
一人の医学者なり科学者なりが、インターデシプリナリー<学際、業際、多数領域提携複合的>な知識や経験をすべて備えている事はまず無い、そしてテーマに沿った適切な科学的計測機材はどこにも無い、協力者を募り必要機材を開発できる研究予算を与えられている訳でもない。
仮にそのような全ての条件を備えたスーパーマン研究者が居たとしよう、
それでも進むべき方向や導き出す答が予めはっきりしている訳ではないから、折角の生涯を棒に振る懸念がある。
殆ど研究者としての一生涯を注いで試行錯誤を繰返し、しかも正解に達する事がない、多くの研究者が報われない一生を終った例は、科学史ではざらである。
さあ、安易な世界に立ち戻ろう。その世界の安易さとは金儲けに忙しく、しかも人間の能力を特化して狭く切取ることだ、大消費地、大都会と概ね重なる。
また、安易さは迂闊、鈍感、無神経、無感動に正比例する係数だ。だが、ここではエコな記述のため、二つに絞り込む事とする。
第1は、高速・大量の安易な輸送の象徴としての地下鉄風景である。
地下鉄は運転コストに限ればエコである。大気汚染は地下にもあると、誰か考えるであろうか?
第2は、自利独占、他損無慮な安易の極みとしての大都会マイカー通勤とタクシーハイヤーである。
自動車は、高速性・大量性を全く欠くことにおいて地下鉄と対置される、しかも自己の独善的利益のために大多数の他者に大気汚染の害悪を及ぼす安易さがある。
さて、まず地下鉄だ。
かつてサリン放出事件があった。大気汚染に脆い狭域空間であることが狙われたのである。
突発的に死傷の事態に至った極めて例外的な非日常の突発事態と認識されすぐに忘れられた?
今日あの空間が汚染されていると考える人は、おそらくいない。だから、地下鉄空間の空気を観測したり分析評価したりする習慣はないようだ。それでよいか?
次に、自動車だ。
自動車の排ガスをめぐる健康被害に関する訴訟は、この国のあらゆる渋滞ゾーンと交差点ゾーンに溢れている。喘息と公害はここでは触れない。CO2について、少しだけ書こう。
この国のタクシーは、自動車登録数におけるシェアが2%に過ぎないそうだが、なんとCO2排出シェアは20%だそうだ。無用の用から有害ガスが出る不思議で腹が立つ、駅に屯ろするタクシーや役所の廻りに停まるハイヤーは、走りに備えて走らずに=これが無用の用に当る=大気汚染の元を吐出している、この大気汚染ガスは二つに分けられる、中央集権の歪みを象徴する社会的雰囲気汚染ガスと都市住民の健康を害す生物的汚染ガスとである。
そろそろ筆を置きたいと想う。大気汚染からの脱却に向けて、近未来を展望しよう。
過ぎた世紀は、未熟な自動車の世紀でもあった。
ここで未熟なという修飾語が何故付くかについて触れておく。さらにその前世紀には、鉄道の出現があったことと関連する。
鉄道も自動車も、もとは馬車から変化したというと、果たして納得して頂けるであろうか?
個人乗用馬車と駅馬車とを技術史的に観察した場合、その機能要素に全く差異は無く、単に利用場面が異なるだけだ。現代人の眼からは鉄道と自動車とは大いに異なって見えたとしても、意義ある昔の動かない事実として抑えておきたい。
大いに違って見えるのは、主にビジネス上のニーズからそのように自動車を作ったからではないか?
筆者の乏しい知識では、自動車開発の草創期には、電気自動車が内燃機方式と併存していたらしい。あのエディソンが作った電気自動車に、かのフォード夫人が乗っていたという。エディソンとフォードとの間に交遊があった事は有名である。
電気自動車は、いつの時代も走行しながらオナラをする無作法がないらしい、フォード夫人の優雅さに相応しい。
因みに現代の鉄道、特にエレガントな新幹線方式も、電気駆動による走行で無作法がない。風切り音が課題だが、それは次回のテーマなので本稿ではパスする。
その電気自動車が、この100年忘れられたような日陰の存在になった。
その点において生まれは、鉄道と実の兄弟でありながら、自動車だけがぐれて家出をした時間が長かった。この出来の悪い弟は、技術史上の脇道に逸れてしまったのだ。逸れた理由は、軍事用途に傾き過ぎて、錬金術師や死の商人と呼ばれる軍需産業<=この国では旧財閥系総合商社とも言う>に接近し過ぎたことだ。
それに、油田の増加という時代の風も加わった。電気からすっかり離れて、油臭いオナラをする無作法を好んでする横道へと邁進した。
金儲けのために、油を火に注ぐ内燃機方式に特化したのだ。内燃機関はサーマルリアクターの翻訳語だが、大気との温度差と圧力差で動くというのが本意だ、石油をナマ炊きして浪費する、売上至上をねらう短絡指向・単線経済の資本主義的悪弊に迎合してしまった。それもたしかに進化である、人道に立つ道徳面からも科学合理性の観点からもまったく頂けない、浅はかな進化だ。
ロサンゼルスに至っては、当時市内にあった鉄道を石油資本が買い上げ、すみやかに廃線にしたことが知られている。
だが、間もなく電気自動車は正しい位置づけに戻って来るらしい。それもプラグイン方式という厳密な意味での電気自動車がである。ハイブリッド方式は、内燃機との併用であるから、依然無作法な尻者だ。
もう少し具体例に踏込もう。
この5月からの上海万博を機に電気バスの運行が始まったらしい。電池を搭載し、バス停に停まり旅客乗降の短い時間を利用して急速充電するそうだ。定期運行のバスは、固定されたルートを巡回し、バスストップ(=停止位置が固定される)に充電装置を予め埋設しておくから成立つのだ。それでも、想定外のトラブルはあろうが、これの意味するところは、技術要素として未熟な運行方法であっても、都市計画的な要素と組合わせて工夫することで、その弱点をカヴァーでき、大気汚染防止上格段に優れたシステムが可能であることを示している。
もう一つの具体例を示そう。
こっちは、足元東京のタクシー業界である。まだ試行の要素が大きいが、大気汚染防止上からも運行コスト削減からも有望である。
大手のタクシー会社とカリフォルニアの新興ベンチャーとが共同して、電池交換方式による商業運行にトライしたそうだ。上海との比較で考えると良い、バスは極めてパターン化された定形巡回運行だが、タクシーは利用者のニーズに従いランダムである。
そのためタクシーの場合はこうだろうか?
予めゾーンを設定(例えば23区内で乗降する条件など運行上の制約・条件など)、ゾーン内にステーションを複数配置し、その拠点に予め充電が済んでいる車載用電池<交換用の予備電池>を配置する。ガス欠になればスタンドに寄り給油するように、電気自動車タクシーは放電しきる前にステーションに行って予備電池と交換する、専用の交換装置がステーションにあって、給油時間よりも格段に短時間<おそらく秒アクセスか?>で終るようだ、もちろん乗客は車内に留まったままだ。
以上、メディアの報道を元に筆者が想像たくましく書いたが、荒唐無稽でないことを祈る。
この想像は、以下に書く第3の具体例と絡む、ここが最後だ
上記2つの例は、兄であるポッポ屋からすれば、格別耳新しくない。
どちらの例も車輛の下に電池を搭載して下側から、上海は急速充電、東京は電池交換アクセスするが、鉄道ではずっと以前からそうして来た。気動車や通勤型・特急型の高速電車では、1個の車輛<細かいことを言えば、二つの車輛の間もあるが>の居住部である上部を車体とし、走行部である下部を車台として、時に接続したり分離したりして、効率的に継続運行して来ている。
ただ自動車屋に、複数機能を垂直に配置する発想が無かっただけのことだ。
因みに複数機能の水平配置例には、大型トラックのドレージとトレイラー、鉄道の機関車と牽引される列車との組合わせがある。
だがこれは馬車の単なる延長だ、走行機能の馬は生き物、居住機能の車は無生物だから、もともと一緒くたにすることはできなかった。垂直配置は、ポッポ屋の独創である。
自動車屋は、馬から内燃機に切替する時に、何を迷って、一つにし、横置きにしてしまったのだろうか?
分離と接合を容易にできるような配慮や、せめて上下に配置する選択肢があって、良かったのではないか。
実に浅慮な暴走だ、馬や鉄の馬が持つロマンを欠いている原因はそこにある。と想うのは筆者だけだろうか?