閑人耄語抄No.43

*No.43  月変る  晩冬去って  初夏がくる
〔自註〕 暖房と共にあった暮らしの4月は、一日にして過ぎ去り、5月1日から初夏の装いを求められた。天気予報が予告した気温の変化は、意外にも当った。皮膚は、急激な変化にさほど迅速にリスポンス出来ないから、追って体調の崩れが現れる事だろう。四季のある暮らしは、文学や芸術を醸す環境として意義を認めるが、生活感覚としてはかなり重いものがある。衣替え、模様替えが間に合わないのだ。ドメスティックな消費生活場面だけでも負担だが、呆爺は自家専用農業者を標榜しているから、一応自然とともにある生産者でもある。その昔、首都圏にあって、ブロイラー・ケージの住人であった頃は、エアコンが必要であったが、その便利な文化的生活は、四季対策に限れば、蛇口を捻るような安易さ、スイッチ一つで温度環境を切替える事が出来た。屋内はそれで良いとして、農業生産はどうなるか?もちろん、ビニール温室という人工的に環境を制御しようとする動きは、概ねこの30年くらいの間に増える一方であり、更なる変化としては、丸の内のビルの中で行う稲作から、工場内でのLED照明を活用した無農薬野菜の栽培なども成立している。それを技術の進化とみるかどうかだが、筆者は懐疑的である。その理由なり背景は冒頭に述べたとおり、四季のある暮らしとの関係において否定的ですらある。つまり季節感とは衣・食・住のそれとともにあり、高齢化と気象環境の激変とともに重くなりつつあるのだが、更に季節感を失わせようとする方向へ向って、その速度を加速させたいとは思わない。季節感の無い野菜を食べても、おそらくその味がペイに引合うとも、その価値を認めないであろう。化石人間の抵抗であるかもしれないが、工場型農業なんぞ、所詮宇宙空間での自給自足を想定しての、言わば「安易な文化レベルでの生残り」を指向した、偽物技術の一端でしかないと思うからである。偽物とは、財政支出の周辺をウロウロする錬金術師と金離れの良い裸の王様とがセットで演ずるヴァーチャルワールドであり、それほど長続きはしないのだから、、、、