閑人耄語抄No.38

+No.38  しだれ、八重  手袋念う  チョボを聞く
[自註] 昨日は久しぶりに晴天に恵まれた。夕暮れの戸外に身を置いて、日脚(ひあし)が伸びていることを感じた。春は夕闇がゆっくりゆっくりやって来る。漢字圏の詩人も『春宵一刻○○』と唱っている。
この夕暮れ時に出逢い、時ならぬ小遣いを貰う幸せを想い起こした。
この数日、続く雨風に閉ざされて、夕陽を眺めることもなく、あまりに風が強く寒いので、花見に出かけようとする心のゆとりも失なっていた。大袈裟に言えば、気温の推移では、初春と晩冬が一日おきに来ては去り、その一日の中に四季があった。
メディアも天候不順による野菜の高騰を報じているが、この寒さは北極振動に由来するという。昨年の早い時期に、太陽黒点が消滅したと聞いたようだ。小氷期が始まろうとしているのか?それとも、北極海の氷が融けようとして北半球の熱を奪っているのか?否、その二つが並走しているのか?、、、、寒い春はもう、うんざりだ。
この春としては稀な幸運の一日は、ウグイスにとっても同じことだったろうか、山陰に啼く声を聞いた。
この季の初なきである。
子どもが電報文を読むようで、とても詠唱とは言いがたく、林の中にいて姿を現さない。
つい気を良くして、青い空白い雲の下をしばらく歩くことにした。
排ガスと騒音を避けて田んぼ際の遊歩道を、そこにある比叡山の西の面を仰ぎつつ岩倉に向けて歩いた。
散歩らしい女の人とすれ違った。手袋をしてる。「念う(=おもう)」とは、自分にも手袋の持ち合わせがあればという念いである。
八重としだれ桜は盛りと咲いていた。間にある「、」は、もちろん並列の意図であって、一本一木ではないことの断りだが、文字表記での依存・便乗であるから、発声に頼る韻文としてはいささか自堕落かもしれない。音符で言えば休止符で無音だが、字余りになるのかも?
のどかさはそこまでであった、北陸本線の特急列車に乗り遅れそうになったが危ういところで免れた。