土壌汚染を考える-第12稿

身の回りの不都合を環境問題ととらえて、思いつくことを述べてきた。初稿の段階で頭に浮かんだ不都合のテーマ(=項目数)は、17・8もあった。第2稿以降は、そのテーマ順で述べてきている。
本稿はNo.12だが、所謂初稿項目としては第10番目に当る。マラソンになぞらえると折返し点を過ぎたが、足元ふらふら息つき怪しくリタイア寸前の様相といった感じで、傍目にも不安な雲行きの感がある。
さて、気を取り直し、本稿では土壌汚染について考える。
そもそも土壌汚染は、言葉としていつ頃成立したのだろうか?汚染は則ち医学的・生物学的に有害であることだから、人類始まって以来のことでもあるようであり、そうでないようにも思える。
だが、事実と言葉の間は、いつの時も、どこの所でも、タイトかつパラレルに同期併存するとは限らない。
簡略に言えば、この国の中に限ると、公害の社会的認知はごく最近のことのような気がする。
飢餓の懸念が消え、日常生活が安定し、世界一の長寿国になる、一応人間らしい生活が達成・維持されるようになって始めて社会的認知に至ったに違いない。遡ること40年内外であろうか?
さて、筆者自身が体験した土壌汚染をまず述べよう。
2000年頃のことである。
それまで長いこと事業診断・経営相談応需のような仕事に従事してきたが、入院加療を伴う数ヶ月の現場離脱を機にして、事業所内部の業務監査を担当する仕事に転じたことがあった。首都圏域の都下と近隣数県に分散配置している事業所を月に2〜3日訪問して事業記録を閲覧点検する、そんな仕事は初耳でしょうか?たしかに、この国では忘れられたような存在の業務と言えます。かなり?脱線ですが、次いでなのでその周辺に寄り道して、、、そのようなチェック機能は、オープンな国民性なり事業風土が形成され、事業の記録化が励行され、日常業務として定着している領域分野でのみ有効なのであって、食う事や儲ける事が忙しいこの国は、未だそのような段階には至ってないかもしれません。乏しい記憶の中から引き出せるのは、医師のカルテと裁判記録くらいだが、日頃耳にする最も困る例は以下のとおり
この国では大きな執行力を持つ組織ほど、記録に対して否定的どころか全く逆切れのようだ、ことさら秘密にしようとする組織固有のマフィア心理なのか、徹底して記録作成を拒絶しているようですらある。これが本題ではないから、もう踏込まないが、警察をめぐる今日の冤罪事件多発や先の大戦を招いてしまった旧陸軍が大陸で起こした挑発行動や非戦闘員に対する暴行事件など、本来公務にある者ほどオフィシャルレコードと行動実績とは完璧に一致することが正当かつあるべき社会の姿なのだが、現実はいつも逆である。
最近、政権交替の後、公表されたが、国務外交庁が秘密協定文書を廃棄処分したとのこと。
とか、少し古い記憶だが、健康保険代行庁が諮問会の議事録を隠蔽するなどのことがあった。
いずれも、スキャンダル以前の破廉恥行為だが、当事者の怠業を見逃すという悪しき慣行横行する役人天国の土壌がある、そんな業務遂行の風潮では、業務監査は全くその意味を為さないのである。
それでもって市民としての人権や主権者・納税者として当然知るべき情報アクセスの権利は、依然後進国レベルに置かれたままである。
さて、体験した土壌汚染だ、体験というにはやや表現がオーバーだ。さほどハプニング性はない。
所は川崎駅近く、勤務の間昼食時に見聞きした程度のこと、それが体験の実相である。
ひと頃高度成長の時代、川崎は生産のまち、京浜工業地帯の中核として輝いていた、その頃の川崎は全く知らない。その後、円高となり、オイルショックがおこり、エネルギーを多く使う産業はコストを回避するねらいから、生産部門を国外へ展開・立地する時代が来た。国内産業の空洞化が進んだ結果、川崎駅前はホウムレスが目立つ街になった。
川崎駅前の海側、お大師に向う道路のサイドは、市道整備を目玉とする再開発計画がはぼ終って、周囲の高層ビルが一新され、ほとんどピカピカだ。その現代的なリフレッシュされた景観の前を、景色にそぐわない風体の「ヒト」達がちょろちょろする、ゴールドラッシュが去ったゴーストタウンのようでもあり、ピカピカの街にオールドラッシュのヒトが住み着いているような不釣り合いを感じた。2000年頃のチネチッタ近辺は、時代回顧的風情であった。
線路を挟んで反対に当る山側駅前はどうか?
散歩の足を伸ばしてみた。その散歩は、月に2〜3日、2〜3ヶ月の空白をおいて間欠的に続いた、勤務のサイクルがそんなだった。人も車も雲泥の差、閑散としている。
多摩川方向は、フェンスの森と言った風情だ。
再開発計画の終盤に向けて土木工事が進行中であるらしく、道路のヘリは見通す限りフェンス、フェンスだ。
それも背丈の倍は超える高さ。
そこには目隠しするぞという強い意志が圧倒的ボリュウムで溢れていた。
この当時、大都市の工事区画は、どこでも適当な間隔をもって透明フェンスを設けていた。
そこのフェンスはそれがなく、異様であった。
その後も時々散歩の足は、その地区にも向ったが、いっこうにビルが立ち上がる気配は無い。
それもまた異様なことと思えた、地元の人にインタビューした。その後、駅前近くの高いテナントビルに昇った。
ビルの中は、外見の華やかさはさておき、空きスペースの方が多かった。
最高階の廊下の窓から、目隠し工事現場を見下ろした。
たくさんの大型土木機械が散開して、表土を掻き取り、土饅頭にする。土饅頭の廻りに、大型ダンプカーが近づくと積込み専用のショベルが動き出す、ダンプが一杯になると動いてゲートに向う。
フェンスの内側と外の公道側には、多くの要員が居て、ダンプの出入りの度にゲートが開く。
その閉じる速さがまた異様である。内部を覘かせない気遣いは、厳密に励行されているようだが、高みの見物とは、よく言ったものである。
体験は以上である。以下はインタビューも含めて新聞に書いてある程度のつまり伝聞情報である。
そこには汚染土壌が発見された。出逢い眺めた光景は、汚染された土壌の搬出作業であった。
かつてそこは、旧三井財閥系のこの国の産業史の始まりを飾る高名な総合電機メーカーが所有する主力工場の敷地であった。
その頃、市街地再開発計画の一環事業として収容・官有化されたが、その前後に汚染問題が明らかになって、搬出作業する事態となったらしい。このような土地転がしに関連して派生した不都合は、淡々と進行する、あたかも臭いモノに蓋をするように、おぞましくひっそりと、速やかに、そして闇から闇へ、、、
言いたいことはそれだけである。
だがしかし、気がかりなことがある。その運ばれて行った土壌の末路である。どこに、どのようになって置かれているのかである。
だが、この国の多くの力ある人は、そんな詰らない<=これは土地転がしにいつも係わる側の言い方だ。フツウの市民にとっては、真剣な深刻事態、納税者として事実上の尻拭い負担者で、採集処理が不明なので知らぬところで再汚染に遭遇する懸念なしとしない不安のタネ>ことには全く関心が無い、不都合なことは、速やかに忘れることに徹しているらしい。
しかも一度忘れたことは二度と思い出さない。闇から闇とは、そう言うことであるらしい。
後日談、付け足しがある。
間もなく業務監査の仕事から身を引き、長野県に居を移した。
縁あって借りた住いは、図らずも標高1,500メートルの高さにあった。定住しない者の生きざまは、平地に住む常民にとってはおそらくハプニング的日常の連続であろう。偶然の推移だが、筆者にとっても稀な体験であった。
高地は水源地である。
飲料上水の水源地である、日常生活にかかる汚染水の取扱いには、日々気配りを怠らなかった。
だが不可解なものを見ることがままあった。あの交通量の少ない高山地域において、首都圏域ナンバーの大型ダンプ車を見かけることがあった。
そもそも、あの手の車は費用をかけて遠くまで走る、そんな高価なものを運ぶ車だろうか?
産業廃棄物積載の表示があるものもあった、あの図体の大きい移動式騒音源が山じゅうを轟かせながら水源のある高地に、何の目的があって、遠くの低地からはるばるやって来るのだろうか?
かつて、川崎付近で見下ろした光景と長野移住後高地の山中で見上げたダンプ車との間には、時も離れ、所も遠く、何の因果関係もなさそうだ。
何かあると閃めくのは、物忘れが悪く、風吹けば桶屋が儲かる式の話をするエコノミストくらいのものだ。
眼の前から消えたら、もう見えない。見えないものは、もう存在しない。
そうだ、過ぎたことは、もうどうでも良い。これが現代の都会の住人、力に満ちたパワーのあるヒトの論理である。
見えないところに、隠されたり埋もれた道<関連性>を見いだし、確率をもって説明するのが経済学である。
1億2千万総勢即刻健忘症、それが廃棄物に対するごくフツウのこの国の対処の仕方である。
それは、公害に対するこの国の社会的認知のありようである。ただただ、すみやかに眼の前から消えればよい。見えないからもう安全だと想い込む、そうすることが自己保身に直結すると勘違いしているだけだ。
飲み水というカタチを変えた恐怖がいつの日か襲って来る、
そんな見方は成立つだろうか?自ら課題を設定し、然るべき答を導き出す。それは理科の領域だ。
そんな理科教育は受けてないはず、そう試験には出ない。
この国の学校では、問題と模範解答は、予め固定している、答が一つしか無いこともまた必定の常識だ。
この二つの繰返しが、見識の狭いワンパターンの人間を作り出す。
それも大量に、人生の輝く幼少年期に集中して。
水が低い所に流れることや、水はあらゆるものを解かし含んでいることは、世界の常識・理科知識の初歩である。
知識は、生かして使うべきであるのだが、、、、
闇から闇、臭いモノに蓋、それは公害報道の横腹か背中にぴったりくっ付いていて、終始離れないのである。
オッド・ジャパン(=不思議のクニのニッポンーこれは人名)・シンドロームの一つに、1億2千万総勢即刻健忘症がある。
茶道や華道など繊細な美を究める国民性の背中には、ダーティーなものを見ながらも感じない鈍感と図太さがくっ付いているのだ。
この図太さとは、十分に計算された世過ぎのワザで、賢者による賢い選択とする見解もあるらしい。
遠路走行の大型ダンプが象徴するものは、財政出動の官営工事だ。官が発注する仕事は、コストカウントが杜撰だ。
しかも、当時者に公権力の行使の延長にある、誤った思い込みと驕りがある。
コスト管理の厳しい民需工事では、そもそも遠路走行は成立たない。
官営工事の多いクニの官製談合スクラムを、最近ある映画人が『ジャパンマフィア』と命名したらしい。
主権者として納税者の一人として、それを見逃すこと=見ても見ぬ振りをする習いは、消極的ジャパンマフィア準構成員の立場にあると見られかねないだろう。そのような予算執行を見逃す、これもまた公害に対する社会的認知の1パターンでもある。
さて、そろそろ筆を置きたい。最後に公害の社会的認知の歴史について述べる。
九州は熊本県も、関東は栃木県も、遠い所でないし、昔のことでもない。
水俣も足尾もそこにある今だ。客観的事実もまた現在進行形である。
見て見ぬ振りや闇から闇にしようとする権力やメディアに対して「否を伝える」。
そうすることで忘れなければ、社会からそれは消えないのである。
水俣市の化学工場は、1908<明治41>年の開設。
他方の足尾銅山は江戸期の鉱山開創だが、廃山状態から鉱害の元凶に復帰したのは1877<明治10>年のことである。
鉱害は公害の原点とも言う。
鉱害から公害に文字が切替ったのは、この社会のありようによって変ったのであって、有害性という人体にとっての不都合は、当初から存在したし、はなから今まで不変である。
その不都合は地球上のあらゆる所にいつの時代も害を及ぼしている、発症したか未だ発症の事実が見えてないだけのことだ。
有害という不都合は、世界中の生きとし生ける生物に、大小の差はあるがすべて及んでいる。
操業開始の当初から、事業所の外の公害に至らずとも事業所の中の生産現場では労働衛生の侵害というべき不都合は生じていたであろう。それを見なかったことにする、すぐに忘れたことにする、闇から闇に葬むったのではないか?
その器用な?国民性が、公害を育て太らせた、公害の社会的認知とは、そのような精神構造の発露であると考えてよかろう。
だから、いつまでも終らない、これからもどこかで何度も起るであろう。
水俣の場合は、1908<明治41>年工場開設、1953<昭和28>年水俣病発見報告、1961<昭和36>年原因特定・科学プロセス解明により公害病としての認知へと進んだ。何とものろい、牛のよだれのような有害物質の垂れ流しだ。
足尾、渡良瀬川のケースでは、1885<明治18>年から所謂現在では公害と呼ぶべき不可解な事件が頻々と生じた。田中正造による天皇への直訴など政治・社会問題化したが、1907<明治40>年谷中村は公権力による強制執行をもって事実上の廃村となり、河川法上の排水池の底地になった。因みに鉱山部門は1973<昭和48>年に閉鎖された。
この二つの代表的な公害事件が公害と認識されたのは、戦後になってからのことであったようだ。戦前戦後は、公害という言葉が存在しなかったこともあるが、いずれの大企業も殖産興業・富国強兵の国策に沿った重要事業拠点でもあった。仮に直接兵器生産や軍需物資に関与してなくとも、製品の輸出をもって外貨を獲得することで、間接的に軍事体制の中に組込まれており、何よりも大事に保護されていたことで、真実の解明がなされる情勢ではなかった。
その時々の国策や社会のありようで、人の健康や安全にかかわることが、変動することが無い市民社会を早く実現したいものだ。
稿の終わりに来ていささか妙な言回しだが、水俣病を土壌汚染の項目で取上げるのは妙だと考える人のために一言しておく。
筆者のように、この悲劇とほぼ同じ時間軸の人生を生きてきた人間には、水俣病は当初八代海の湾域における水質汚染であった。
少なくとも、それが体験にもとづく実感である。メディアの報道姿勢は、長い時間を経て(上述の年次経過によれば昭和28〜36年までの8年間だが)、水質から土壌に原因の所在が変わり、有害物質の発生源が特定され、海と工場との言わば遠く離れた2つの空間における公害工学的因果関係が科学的に立証され、反対意見を表明する加害者擁護の側の意見を表明する科学者グループが沈黙するまでの長い時間が過ぎたのであった。
事実なり科学的真実が、このような経過を経て、社会共有の「揺るぎない事象」として認知するまでには長い時間が経過したのであった。