閑人耄語-第32   雲たかく  柿の葉もみづ  かくのたて  瞼のうちに  ともない帰る

 
〔自註〕 過ぎた秋<2009年10月>秋田県仙北市に立寄った。
「かくのたて」市内3カ所を会場にして開催された『秋田蘭画とその周辺展』に巡り遭った。
この年が、小田野直武・佐竹義躬生誕260年に当ること(展示案内の副題)で企画されたようだ。展示は絵画や絵画史の回顧にとどまることなく、出版と挿絵の関係や黒船来るの前夜における外来文化の受容を偲ばせるなど、得る事の多い多面的な展示であった。
やはり秋田は秋がよい。
さて、かくのたてとは角館だが、平成の大合併仙北市に属した。発声が厳密?な方は、おそらく「かくのだて」であって『かくのたて』ではない、と仰せられることであろう。
かくのたてとする屁?理屈やら言訳?をまずする、4日間に亘って徘徊した実感からですね。
単に天然の要害たる地域(画地)に築かれた『タテ』(=館)であることを訛らずに著している。広辞苑には、「たち・たて」の見出しで、河川・沼沢に面する丘陵などを利用して作った、小規模の砦とある。
角館の街並を概観してみよう。
中心市街地は南に玉川、北に院内川、西に桧木内川と概ね三方を天然の要害である河川に囲まれている。
観光客の群れる武家屋敷(=重要伝統的建造物群保存地区)に立って、北の高台を仰ぐと古城山がある。
旧町役場付近の標高が56メーターだと言う、すぐそこに110メーターも高い山がみえて、山をそのまま城にしたような素朴さがある。
その城跡に登った。俗にいう健脚向きで、かくのたてと呼ぶに相応しい体感だ。山の頂部に達すると平坦面がある。そこから呼吸を整えつつ四方を見渡す。南の方のみよく見える。その無骨さが北の守りの厳しさを、まつろわぬ奥羽のますらお(=偉丈夫)振りを代弁しているように感じた。
関心をもった城の背面(北方向)の低地はあまり観察できなかった。地図で見るとその方向は、桧木内川と院内川との合流点に当る。なんとなく気になる方角であった。
角館で知られるものと言えばサクラである。
川の堤に延々と連なる桜と武家屋敷の庭桜とは、おそらく別物であろう。後者はしだれ桜で、佐竹北家(さたけきたけ。この呼び名がいつ成立したか不明だが、1602年常陸佐竹氏が久保田藩<現在の秋田市>に転封された後は同じ領内に実の兄と弟とが居る事となり、弟の家は角館の別家または支藩と視られるようになったらしい)と絡めて、京都由来やら陸奥の小京都なる役割を担うらしい。
観光キャンペーンは、人寄せパンダチックに有名銘柄につなぎを付けられる。それがこの国の古典文学・旅日記以来の悪しき?伝統であるかも、、土着の人々は、○○京都の古臭さと安易さが、耳障りで鼻につき不快に思うらしい、、、
サクラは常識的に春だが、花に拘るべきでない。秋の紅葉サクラも良いものである。他に先駆けて黄変し、もみづる。樹々の葉が抜け寂しくなる前の早い秋の紅葉、それこそサクラの独り舞台であると思い込んで来た。
だから、しだれるサクラの紅葉を期待して行ったのだが、すべて落葉したアトであった。
その代わり、柿には申し訳ない言い方だが、柿の葉の紅葉を発掘した。表がつやつやとして、光を跳ね返すが、一枚の葉がパレットのようだ。鮮やかな色が盛り沢山に大集合している。それはまたそれで、心に残る、新しい秋であった。
以下は、余白である。
小田野直武(1749〜80。おだのなおたけ)は、一時期抜擢されて江戸に出たが、間もなく帰郷し、31歳で亡くなった。
若くして死んだ英才である。滝廉太郎を連想させる。
絵画と音楽、江戸中期と明治時代の違いはあるものの、ともに地方人であって、海外から伝来した新手法に長けることで文化領域に名を残し、しかも夭折した天才として重なりあうものを感じた。
もちろん蘭画のことはよく判らないし、直武の生涯についてもよく知らない。ただ、仕えた主=佐竹義躬(1749〜1800。さたけよしみ。角館城代第6世、洋画家・俳人)と同年で絵の趣味が共通であった。このことが内陸の盆地の風土で天地が狭いことも幸いして、当時の厳しい身分制封建社会を乗越えたようだ。
そして、夜明け前の1773年、ほんの一瞬だが雲の僅かな切れ間から光がさして直武に当たった。英才はその時に一挙に世に出た。がしかし、雲の切れ間は、大きくない。一瞬とは、短い期間でしかない。光に照らし出されて江戸に出た事が、彼の生涯を短いものに縮めたように思えてならない。ステレオ的だが、太く短かく生きるか。それとも細く長く生きるか、人はそれを選べない。まして、先のことは誰にも判らない。
ここで直武について述べる事もまた、想像たくましく描くアト講釈でしかないのだが、人生五十年の時代にその6割を生きたのだから、格別の悲劇的秘話はかったとも言える。死因は何であったか謎だが、悲劇とする材料は結構ある。
自由平等の現代と異なり、この時代特有の悲劇はたくさんある。記述の都合で、整理番号を付すこととする。番号は、時系列とするも悲劇の程度ではないので、注意のこと。
死の前年の1779年まで江戸で学び、秋田の藩庁に出仕した栄光の身が、一気に暗転した、最後の悲劇とする理由である。
この年、藩主佐竹義敦(1748〜1785。さたけよしあつ。本藩である久保田藩主第8世<常陸佐竹期を算えない>、洋画家佐竹曙山<しょざん>として高名)から遠慮を申付けられ角館に帰った。そしてその翌年亡くなった。
時計は約30年ほど遡ぼる。
1749年角館に生まれた、これが第1の悲劇である。幕藩体制は、地域主権制の封建君主政治だが、島国にも係わらず幕府祖法の海禁政策による対外閉鎖が厳しく、角館は地理的に長崎からもっとも遠い空間で、外国文化との接触において地政学的辺境そのものであった。
槍術指南の下級武家の4男として生まれたと言う、これが第2の悲劇だ。この時代、別けても武家は特に、家を継ぐ長男だけがヒトであった。長男以外は、「ヒトその他」でもなく、「コトバを話す牛馬の類い」であった。この厳しい反人権的規制が、自給自足と一国平和の基盤となった。幕府祖法では伴天連邪宗門禁制を建前としたが、あらゆる時代変化・進化摂理を押し止めようとする全包囲的規制・旧制維持の政策は、約260年の間、全人口の推移を3000から3500万人の幅に収まる結果をもたらした。牛馬扱いされる部屋住み身分を運良く脱することが出来たのは、兄の若死に遭い家督相続した、他家へ養子にやられた、などのごく少数の幸運者のみであった。部屋住み者は、結婚はおろか自由になる小遣い銭すら乏しく兄嫁の胸先三寸に従う心細さであった。その点、直武は幼少時から世間に知られる天性の画才があり、強運であった。
その画才が、世に出る基となった。出る杭は打たれる、第3の悲劇の背景ともなった。
第3の悲劇は、1773年に始まる。あの奇人平賀源内と直武は出逢ったのである。源内四十代半ば直武は24歳のことだ、一説に直武の描いた絵を角館の宿で見て呼び出し、絵師でもない源内が、西洋画由来の遠近法や陰影法を教えたのだと言う。
四国讃岐志度浦生まれの源内が何故秋田藩内に約3ヶ月も居たのか? 藩が物産方として招いたのだ。いつの時代もどこでも特産品を発掘するか、開発することで外貨獲得を図ろうとするものだが、久保田藩は鉱山振興により財政建直しを図った。
この時、直武は西洋画法を身に付けたばかりか、これが縁となって、その後2人の殿様に絵を教える立場を得た。
江戸に行き留まったのも、藩から銅山方産物吟味役なる辞令を下されての公費留学だった。留学とするのは、辞令は名目で、江戸で絵を学ぶことが彼に課された仕事であったらしい。
因みに直武の役人としての最高ポストは、藩主側用人であったようだ。たとえは悪いが、出先の係長の息子が、本社代取のお気に入り秘書になったような異例の大出世であった。武家奉公を突然に始め、そしてまた突然に止めさせられたが、ほぼ同時とも言える1年後に、画人と人生のほうも終えている。武家と画人を切離し天性の才を使い悠々と故郷で生きる道もあったのでは、とおもう。
直武は、秋田蘭画の始祖として多くの名画を残し、蘭画家佐竹義躬・佐竹曙山の師でもあった。そして、解体新書の図譜を描いた。直武江戸滞在中の1774年出版されたが、本邦最初の西洋医学翻訳書には、主に人体部位の解剖図からなる27枚の図譜が付いていた。
このような書籍が出現する意味はこうだ。当時蘭学と言った西洋の知識は、実学である医学・臨床の領域で最も拡大していた。そして、技術史の五十年ルールがはここにも及んでいた。ベースである8世将軍吉宗の洋書解禁は、1720年のことであった。
因みに余談だが、海禁がらみで名の出る将軍の吉宗も、執政の井伊直弼大老も共に部屋住み脱出組である。
おそらく、この解体新書・図譜の縁も平賀源内の人脈がもたらしたものであろう。源内は、本草学者、戯作者とあるのみで、素性がよく判らない人物だ。
近代を先取りした器用人であったかもしれない。ここでの近代とは身分制撤廃の意味だが、武家出自でなかった源内は身分の垣根を越えて居たかもしれない。諸国物産の専門家として藩庁に招かれた事は、洋書解禁に始まる知識の拡大と洋書解禁が招いた想定外の秩序崩壊が、源内の人生とともにじわじわ進行していた時代背景を教えてくれている。
だが、このような新時代は、芝居の幕や階段のぼりのようにスムーズに展開することは無いものである。古い勢力に足場を置く為政者は、常に権力をもって押戻そうとするから、新しい夜明けは行きつ戻りつするのである。
新しいことに挑戦し続けた源内は、1779年突然51歳にして人を殺した。罪を得ての入牢中に死去したという。
このことが、直武の謹慎遠慮を招いたのであろう。
画才、出逢い、源内の引きが、大きな仕事のタネにも、禍の基にもなった。
最後に、前野良沢のことを書いて筆を置くこととする。
解体新書にからみ、蘭語の実力において抜群の役割を果しながら、出版者として自らの名を載せることを拒んでいる。彼の真意がどこにあったかは不明だが、後の世に起った安政の大獄を想うとき、時代の行きつ戻りつに備えたのかも知れない。
藩医として良沢は慎重に立回った、その深謀遠慮に感心させられる。
なお、角館は閑人耄語抄No.28で触れたが、予告でも、暖めてきた訳でもない。