Kankyo-10

*電気トラブルを考えるの第3節-第10稿
環境を考えるシリーズの第10編は、予告したとおり第8題「電気をめぐる不都合」の最後の分節として原子力発電を取上げる。
すでにNo.8と9では、送信と送電の2つの「クモのス」が空中に存在する不思議と山奥の「クモのス」がダムに由来する環境破壊クィーンであることを述べた。
さて、原子力発電だが、この発電方式は安全だとよく報道される。しかし、何故か人口密集地の近くには発電所を建てない。それはそれで賢い選択なのだろうが、電力大消費地である巨大都市と遠隔の地にある発電所の間を結ぶ送電線。
その過大な存在感、遠く山並みを眺めてもほぼ直線に尾根筋を走る山越えの長大な人口塔に苛立を感ずるが、詳細は既に述べたので、再言しない。
さらに、一部の環境論者が二酸化炭素を全く排出しない発電方式として、原子力発電を持上げているらしい。
これは錬金術まがいの酷い詐欺だ。
そのうえ、原子力発電はコストも他の方式に負けないくらい安く、コストメリットで有望だとする悪質なまやかしが横行する。
このように原子力発電方式は、全体を覆い隠す詐欺とまやかしの伏魔殿であるのだ。
まずもって、まやかしとする理由を述べる。
原子力発電方式だけが、コスト計算にシステム全体の総費用を算入していない。
放射性廃棄物の処理を全く隠したままである。発電する以上、放射性廃棄物の発生は避けられないから、臭いモノに蓋をしたままだ。
放射性廃棄物とは、小さいものは、現場作業員が使った放射線被爆防止用の手袋から始まって、大きいモノは、燃焼ゴミとしての反応済ウランなどの放射能物質である。
それをどこに捨てるか、どのように捨てるかが、未だ決まってない。そう、ゴミ処理の実績が無いから費用データの実数も無い。データが無いことをもって、コスト計算に含めない。出鱈目なのだ。
それでもって、火力や水力など一応システム完結している他の発電方式とコスト比較できるか?、一方が部分コスト、他方が全体コスト、その間で比べて安いとか高くないと、論ずる意味など全く無い。
議論にならない無茶苦茶を、発表したり報道すること自体が根本においておかしい、バカでも判る茶番劇だ。何とも理不尽、質の悪いまやかしである。
だが、コスト比較問題なんぞ、詐欺に比べればまだ小さいと言える。
詐欺とは、何か?
ゴミ処理をしない未完結の原子力発電システムが動いていることを指して糾弾しようとする悪口雑言である。
これを読者の身の回りのことに置換えてみよう。
生活者である貴方は、トイレの無いマンションやゴミを撒き散らす住宅に住みたいと思うか?格安と称してそのような不動産が売りに出たら身銭を切って買う気になるか?
基本的欠陥を抱えたまま機能し始めた原子力発電、その計画のずさんさに驚ろくばかりだ。
それに加えて、原子力発電所の事故は怖い。
スリーマイル、チェルノブイリなどにある地表の人工太陽は、太陽であるだけに地球の生物に対して想像不能な深刻な被爆事故を招いている。決して過去の事故ではない、現在進行形の悲惨な事故である、生き物とはそうなのだ。
さて地表の人工太陽とは、かの有名なマンハッタン計画が実現した原子力爆弾であり、その延長とされる原子力発電を言う。
コトバ巧みに、原爆の平和利用などと報道されて久しいが、原子力発電方式は、まず爆弾であった、この動かない単純な事実を踏まえるべきである。核爆弾をゆっくり爆発させて水を沸かす、沸いた湯の蒸気で発電機を廻す、そんな子どもじみた幼稚でお粗末な仕掛が平和利用と名を変えた。なんとも、プリッツェルとソファーで瀕死して貧士統領健在を証明した猿国にふさわしいネーミングだ。
先の稿でウォーラーステインの世界経済システムを述べたが、事業スタイルとしての資本主義の一面を適確に解析していると思う。その運動システムは中核と周辺とを意図的に創出して隔差を常に大きくする事とした。原子力発電方式は、まさにそれに当てはまる典型例である。
核技術を持つ戦勝国が、無条件降伏した敗戦国に、「カク」を持たせず、「カク爆弾開発に要したカネ」を押付け廻した。世界一高い電気料金として、敗戦国民から巻上げるシステム、それが公益事業、地域独占、10電力の出自なのである。
軍事技術を平和利用に置換えたり、我身に不都合なモノを他者に転嫁して金儲けすることを、イノヴェーションとも言う。
またもヨコ文字で申し訳ないが、既にある日本語訳の「技術革新」は、あまりに原語の意味を矮小化し過ぎているので、ここでは発音表記とした。革新的に事業を遂行する意味で使っている。
ここでは、イノヴェーションなるコトバは、経済原理としてではなく、外国軍駐留と言う政治的強圧をもって、理不尽にも敗戦国民に対して押付けられ、史上最大とも言うべき巨額の軍事支出の償還に当てられたことを、指し示している。
発電方式としての原子力に市場優位性が果たしてあるだろうか?
このことは、過去も将来も検証されないまま、この発電方式が消えて行くであろう、そんな漠然とした予感がある。
それほど、このシステムには、戦後ミズーリ秩序体制とでも呼ぶべき、社会経済的矛盾と技術史上の瞞着とが蠢いている。
20世紀の業病とも言うべき壮大な社会実験は、21世紀が到来する前に実験室に戻すべきであった。ベルリンでは、かろうじて間に合ったが、極東のシマグニでは行われようとする気配すら無い。
事業スタイルとしての資本主義経済は、キャピタルゲインの形つまり金儲けの達成として機能する仕組である。そして、その金儲けの行き先は少数者の懐であって、その原資は大衆の懐つまり運動システムで言う周辺から移転したのだ。
だからこそ、この事業モデルは、徒らに大きく構築されるし、プロセスを過度に複雑にされる。そうすることで、すべてを見せないようにする、見通す力の無いものに隠し、騙すように仕組んであるのだ。そして、その歪んだ発想が、事故の根底を成す主な原因なのである。
原子核が分裂することが最初に報告(レントゲンやベクレルによる放射線発見と解明)されてから約50年にして、カーン達により人工的に核分裂を起こす試みが達成され、原爆を創り出した。
それが新型爆弾として現実に使われたのは、数々の偶然が積み重なっている。それを述べる事は、本稿の目的ではないので、もう触れない。だが、戦時における軍事開発予算の膨張と、思いつきにトライする多数の科学者が一堂に集結したこと。この2つの同時合体が、異常な軍事兵器の開発を進め、新型爆弾の成果をもたらしたのだ。19・20世紀は本来不要な技術についての達成は迅速であった。このことを指摘しておきたい。
非常時がもたらした悲劇と行過ぎの感じがどうしても拭えない。人類史を通じて究極の不要物は軍事科学と爆弾である。
マンハッタン計画が地表に創り出した人工太陽は、爆弾由来だけに反応速度を将来とも十分に管理できるようには思えない。地球の内部には、もっと緩やかに進行する核分裂反応があるかもしれない。
原点に立ち返っての再トライを検討すべきである。
技術史としては、この200年間、大きく誤った方向にスライドしたようだ。
何故これまで技術史の本道と言うべき、電気を貯蔵することに開発の光が当てられなかったのだろうか?
この答に当るものが、筆者にはあるが、この稿の主題から外れるので深入りはしない。もちろん答は一つではない。ヒントだけ述べておくが、資本主義と言うシステムでは、コスト合理性よりもマーケット・シェア極大のほうが、より強く働くものだ。と、、、ヒントの傍証の一つとして、20世紀を作った自動車が何故今頃になって、エンジンからモーターへと、より単純でより低コストで技術難度が低い方へシフトしようとするのかを挙げておく、、、
電気を貯蔵すること、この技術史上の本道に回帰することは、送電線「クモのス」を、この国の山岳のみならず、市街地からも一掃するかもしれない。小型発電と電気貯蔵の組合わせは、電気の生産と消費における時間的ミスマッチも、空間的ミスマッチをも、一挙両得に解決することであろう。
この小型発電と電気貯蔵の組合わせによる電気エネルギー・システムは、この国の実情に合致した構想である。
オバマ大統領が描くグリーン・ニューディール政策、スマートグリッド構想は、大陸、砂漠、時差幅の三つがいずれも大きいことを前提とした太陽エネルギー<熱と光を含む、何故か日本人は光オンリーに傾き過ぎていて不経済だ>依存の方式であって、長大送電ロスを回避できない点において技術史の本道に遠いシステムでしかない。
だがしかし、現時点で未だ決定的な電力貯蔵素材は、見つかってない。白熱電球の発明から130年経過して、未だに有用な電池が手元に無いとは、、、人類はなんと、必要技術の開発に関して、怠慢を決め込んで来た事だろうか、、、、
マンハッタン計画の要領で、資金と人材を結集して、電力貯蔵方法の実現を図るべきである。発想の転換で、意外な解決策があるのではないだろうか?
今日、電力を使ってエアコンを動かし、冷・暖房の環境を作り出しているが、その逆をやる事で、電気を起こせないだろうか?筆者が言う小型発電とはその程度の思いつきでしかない。
Bフランクリンで有名なカミナリの放電は、大気の中での温度差がもたらすエネルギーであることを思い出してもらいたい。断熱素材を活用して家庭に二つの温度がある空間を形成・維持することで、容易に発電でき、送電線「クモのス」も送電ロスも無い社会を作りたい、、、、。
行過ぎた『大型化』と『複雑化』は、もう「適正・小型化」と「簡素化」に立ち戻るべきなのである。
これで、電気をめぐるトラブルの三つの分節<Kankyo-No.8〜10>が完結した。