Kankyo-9

*電気トラブルを考えるの第2分節-第9稿
環境を考えるシリーズの第9編だが、本稿は前稿に引続いて第8題「電気をめぐる不都合」のテーマでの中間分節として水力発電を取上げる。
前の分節では、日本で見られる長距離送電の無駄を送電による科学的属性ロスと保守点検討などに伴う経済計算ロスとの両面から述べた。
「クモのス」送電は、市街地と言わず人里離れた深山と言わず、不快である。この国にだけ顕著に目立つ都市環境・自然景観の破壊である。
因に石川県金沢市は、市街地地中化送電の割合が国内一をキープしているそうだ。観光を市政の目玉として景観改善を長いこと続けてきているそうだが、そのトップの達成実績率が、何と0.1%と聞いて、ホントかよ?とがっかりする。
ロンドンやパリはほぼ100%だと聞くから、その美的感覚の格差に驚ろく。
ついでながら、山岳送電には、思わぬ事故が付纏う。数年前だが長野県でメディアが飛ばした取材ヘリが送電線と接触して墜落したのである。ヘリ操縦者の過失にすべてを押付けることが、この国の常のやり方だが、それで良いか大いに疑わしい。
ここでのやり方とは、今あるものを至極当然の前提として考える風潮のことである。この国に根強く存在するそのような風潮そのものが、既得権を暗黙のうちに承認することに繋がっており、順当な社会思潮とは思えない。因みに、この風潮を”呆爺用語”では【勝てば官軍主義】と呼ぶ。
山岳送電の削減なり撤去なりを推進して、痛ましい事故の防止、より安い電気料金の実現、美しい国土景観の回復、そして地球に優しい生き方へと導く姿勢が欲しいものだ。
この送電ロスは、水系ダムによる水力発電にも当てはまる。
このダムがまた、自然破壊、環境破壊の古典的キングだ。
建設材料のセメントや鉄骨の生産地から遠い山間僻地に立地する。これも原発コスト同様で、経済計算上ロスが大きいにもかかわらず、建設業界に事業機会を増やし、GDPを拡大せんがために強行されてきた。人類が科学知識を振りかざした結果招いた失敗のうちで、ワースト1に属するものの一つがダムの建設による地球システムの冒涜である。ダムがもたらす不都合な事象は、あまりに多過ぎて、数え切れない。海岸線の後退と防備目的の護岸工事、テトラポットが組上げられる景観破壊された砂浜は、ダム以前は無かった景色だ。河川が運ぶ源流山岳の土砂が、歌枕で知られる白砂青松の優美さを維持形成していたのである。国栄えて山河荒れる今日である。ダム以前海に達していた山砂は、今はダムの底に貯まっている。折角作ったダムは、数年を経ずして底が浅くなって、本来の用途を失う。ビル建設用の土砂として有望だが、輸送手段においても、コスト競争からも山間僻地では、ほぼ無用の長物である。一つの水系で1個ダムを造ると、土砂で埋まるため以後ドミノ的に更にその上流にダムを量産しないと、発電量が維持できなくなるのである。だが、土木工学的に建設条件を満たす地形は有限であり、更に経済上の採算性となると一層困難になりつつある。本来、ダムなるものが、技術史上の典型的な失敗なのであり、部分知としての科学認識に立って謙虚に振る舞うべきをそうしなかった事例として、負の産業遺産としてUNESCOに登録するべきものだ。ダム弊害をもう一つ、磯焼け沿岸漁業の壊滅である。磯焼けとは、海底の白化とも言う。海藻が失われ、プランクトンが消え、小型の魚が居着かず、そして大型魚も見えず、そこで漁をしていた漁民が困ることである。生態学的には、大雑把に言って、陸も海も変わりは無いとの掴みで良いと思うが、河川によって、源流山岳から運ばれていたミネラルが、沿岸の海藻を育て、海藻と言う植物を食糧とする動物による食物連鎖が形成されて、採集によって成立つ漁業が行われてきた。言わば、原始的ではあるが、単純再生産を維持する範囲に漁獲量を留めておく智慧があれば、ほぼ半永久的に維持される最も理想的な生業<なりわい>であると言えよう。自然景観と相まって帆船が釣りする牧歌的な風情を添えたものだ。蛇足ながら、一本釣りなどの原始的漁法がリーズナブルなのであって、網による漁撈は、エコロジーに反するものだ。大某、定置、底引きなど効率操業に傾き過ぎて、自然界の仕組を知ってか知らずか、自然界の循環を考慮しない収奪行為は、ダムと同じ悲哀を味わう事は避けられないのである。