Kankyo-4

*盗難を考える-第4稿
環境について、思いつく不都合を初稿で挙げたが、4つ目のテーマは盗難であった。
盗難は、自分のモノが失われること、ただそれだけのことだ。だが、同じものか似たようなものかは、判然としないが、他人の手の中にあることを見いだした時には、心穏やかならざるものを感じるのである。
犯罪を論じることが、本稿のねらいではないが、盗難つまり窃盗と呼ばれる犯罪扱いから犯罪とならず合法とされる経済行為までの差は、実は微妙なのである。
ここで具体例を示す。ある商品を裏口から搬入して、ものの5分も経たないうちに、表口から入って来た顧客が購入して行った。さて、その品物の値段だが、仕入れ値は100円、売り値が10万円、単純に換算すれば、時間単価12,000円の高級ビジネスなのだ。
そんなボロい儲けは、人生に一度あるかどうかの偶然とは言えない。ざらには無いが結構身の回りにあるらしい。もちろん骨董ビジネスのことでもない。
余談だが、骨董品は嗜好<しこう=求める者が指向するものは狭く、至高と思い込む?>性が強過ぎて、ほとんど考える対象にならない。
だが、貨幣が表示する価格とモノとしての価値とが、これほど乖離する例は骨董以外になく、ドロボウ行為に限りなく近い。詐欺の要素も無いとは言えない。価格を決めるのが、売り主か、それとも買い主か、第3者を装うことの多い鑑定者と言われる回し者なのか、ケースによって経済取引から詐欺行為までその幅は広い。そこが、ショウ的要素つまり覘き見願望に訴えることがあるのだ。
なお、サイエンスの英語綴り?の冒頭三文字は、SCIだ。原語の語幹の意味は、好奇心だと聞く。
骨董の価値もまた「コウキシン=あえて漢字を当てれば、高い、稀で珍しい、新しい<始めて出逢う>となる」に近い。つまり、SCIは「スキ」と発音でき、数奇に通ずる。風流を愛でる世界には、価格も価値もたいして意味は無い。科学者は発明狂、物好きの類いのロマンチストだとしておこう。
さて戻って、世にボロ儲けの例は、少なくはない。一次産業のほとんどは、ボロつまりドロボウの4音価の中間の2つが音価転倒してボロになったように、濡れ手に粟のように、ドロボウ儲けするのが当為である。鉱山業、漁業、森林業などは、単純に言えば、自然界にあるものを取込むだけの事業である。あえて生成なり、生育なりのメカニズムを探れば、大地のエネルギーや太陽エネルギーの成せる技である。
そう言えば農業もまた、原始創世記の所謂粗放農業の段階に限れば、それに当てはまる。
だがしかし、現代の眼の前にある農業は、自然破壊と同義であり、アニリンの合成(1840年・ドイツ)に始まる近代化学工業による農薬・肥料などの化成品を伴うようになってからの近現代農業は、環境破壊のキングになってしまった。
あるがままの一次産業は、基本的に窃盗と変らないが、自然本来が持つ生成・生育時間の長さ(=再生産サイクルのこと)を越えないように採取していることができれば、犯罪性もなく、それでいて環境破壊の非難も浴びずに済んだことであろう。
現実には、それはただの一度もできなかった。科学的に無知であり、欲望を調節する智慧を欠き、一族繁栄を願う人間性が人口膨張を招いた。人のゴウ<=業の病>が、諸悪の根源となった。
後世の工夫により、採取する総量を申し合わせて調節するようになった。
だがしかし、それは則ち同業者による排他的権利の設定・主張であり、その上に立っての操業自粛の実施だが、その外部に位置する消費者つまりアウトサイダーにとっては、盗難に遭っているのと大差がない。コペンハーゲンCOP15が合意を見なかった、主な原因は、鉱区や採掘権などの私的所有権に準ずる独占的な実効支配の根本にある思想、つまり、大地や空気や水に対する所有観念について本源的疑問を提起し、先進社会の既得権に対して異を唱えているのだ。
先進国側は、私的所有権を主張するが、それが窃盗つまり収奪行為や搾取にほとんど限りなく近接しているとの気付きが、いつの日か芽生えることがあるだろうか?環境問題のイロハは、そこから始めるべきである。