Kankyo-1

*身の廻りの不都合であるストレスを考える−第1稿
この世の生きとし生けるものは、偶然の中に存在する。ここで言う偶然とは、必然に対置する意味である事の他に、「生物」を定義することが困難な事の言訳でもある。
人類のこの2千年の大勢は、必然を当然とし、必然を追求することに捧げられてきた。必然は確信であり、懐疑を排除する。必然は、また予定調和の予知を許容する。
だが、この400年くらいは、宇宙を観察する手段に、偶然の進化が起きて、知識の積み重ねが増えた。この知識は、おそらく言語と文字が生じた頃に生きていた人が、頭の中に描いていたことと、ほとんど差が無かったのである。断片的知識は、その後も体系的に整理され蓄積され、科学と言う括りになっている。
さて、冒頭に戻ろう。生き物とは、何ぞや?生物を網羅的に説明し、そのシステムについての解明は、ほぼ50年前に格段の進化を見た。しかし、科学人は、未だに生物を科学的に定義することに成功していない。
その理由なり背景なりを2〜3点、軽く触れた後に本論に入る事にしよう。
 ○人は考える蘆であるーこれも有名な一つの定義である。だが、今日身の回りにロボットが出現し、これを動かすために人の脳波をデータとして応用する方法が研究されている。そこで、人が作ったキカイにも「考える」事や「こころ」があるのではないかと想うようになって来ている、、、
 ○科学は、もっとも身近な外国語ではサイエンスだが、つまり外来語の翻訳である。源流は、おそらくグレコローマンもしくはサンスクリットであろうが、好奇心を意味する言葉に由来するらしい、、、、
 ○そのような、愚にもつかないことから、ここでは、科学は偶然に立てばこそ部分知であって、いつの日か完全に近づくことを夢見て、ひたすら楽しむべきである。つまり冒頭の命題らしきものを掲げた所以である。
さて、Kankyoを考える第1歩として、小から大まで思いつくままに、環境関連の不都合を掲げる事にしよう。
ストレス、ケガ、病気、盗難、交通事故、労働衛生事故、労働災害、感電事故、ガス爆発、土壌汚染、大気汚染、騒音、放射線漏れ、日照り、洪水、地震、気候変動などなど、、、
これらの不都合を解決する方法はあるだろうか?
結論を先に述べると、答は「無い」の一言である。
ヒントとして、キィーワードを3つ掲げる。1=偶然に発生し存続する存在。2=遺伝子の働きとしての多様性の追求。3=仏語に言う諸行無常
答に向ってアリの道草を始める事としよう。
ストレス、これがまたよく判らない存在である。人間だけにあるのか?そうでないのか? ヒトの外にあるのか?内にあるのか? それとも、外から来て心の内に起るのか? 挙げて個人の課題なのか?社会的問題なのか?、、、、、
その原因・背景なりが掴めれば、解決策・治療法もまた容易になろう。仮にそれが見つかっても、ある確率で解決することがある。つまり効果は偶然なのだ。だからこそ、医学は科学ではないとは、ここでは言わない。進化途上にある部分知が科学なのである。法則もまた科学のうちである。
ストレスは、文明病のひとつであるから、便利な環境で多発する。大都会では、飲み水の入手は、赤子の手を捻るより簡単だ。ネイティヴアメリカン居留地やアフリカ内陸の先住民には、半日一日仕事だ。逆療法があるかどうかは別にして、便利な環境から一転して不便な環境に身を置くと、ストレスは消える事が多い。ヒトは逆境に対処しようとすることでストレスを忘れるのであろう。それは、気分転換とも言う。便利な都会に住む人ほど旅行をよくする。あえて不便な?非日常に身を置くことで、気分転換を図っているのかも知れない。
いやそうでは無い。ケータイを持って行ったら旅ではないのだが、自発的に手放すことは出来ない。そこに気づきがないことが危機的なのだが、偶然アンテナの立たない所に身を置くことがある。
ケータイ携帯人には、ホリディもリゾートも無い。とする説がある。これは便利な機器であるのか?そうでないんか?