2010の年賀状 from Double Stone-river-side

 COP15成立せず。ちびテッペン禿げ会議?は、京都6を越えられなかった。今日の世界で新しい事を成すは困難事だ。
 環境問題は、指先から宇宙にまで及ぶ人類由来の課題である。ヒト以外の生きとし生けるものは被害のみあって加害責任は無い。環境諸悪の根源は、二本足歩行と火を扱う事に始まっている。最古の環境対策は、煙突据付と措定しよう。この思いつき技術の本質は、単なる拡散と希釈化と言う一時しのぎでしかない。それで、汚染の拡散は、人間を含むすべての生物のものである地球全体に及んだ。
 人間のみを中心に置く既存科学の立場が主流の今日、環境問題の未来は暗い。

上記は、産業社会に生きる知人や親戚に送った郵便送達方式による新年メッセージの全文である。以下は情報革命進行途上に身を置きつつある読者に送る年賀状である。
年賀葉書は、いろいろの制約があるが、新しい年の始めから、この国の公けで無いにも係らず、あいまいな事をあいまいにして置き、事を荒立てないように心がける身辺平和愛好の国民性に沿うべく、どうにか所定の短さにしておいた。
会議場となった、デンマークの首都コペンハーゲンには行ったことがない。生来ガサツな私の耳には、ちびテッペン禿げなどと届く事がある。地名の意味なり由来なりには興味があるが、コトバの壁は如何ともしがたい。
ここで扱う環境問題は、オラの結論に関するキーワードを示すことでそれ以下を読むに値するかを決めてもらう事にしようと想う。
キーワードは、人類は、戦争をする事なく、この只今の過剰な人口を、速やかに減らす事に邁進せよ  である。
すこしだけ補足すると、宇宙開発など、ほとんど錬金術まがいの行動は、見返りが乏しく、エネルギーロスが大きいので取りやめたいと想う。
ここからが、続けて読んで頂く方のためのスペースである
人類は、技術に頼る点で、生物の中の動物から派生しながら、動物の持ち備える大いなる智慧を失って、落伍生物に堕ちた。
今のところ、人類以外に技術に頼る生物は、見つかっていない。だがしかし、霊長類に起った遺伝子の偶然は、可能性としてすべての生物に起り得るが、火を怖れない動物種は居ても、扱う段階には達してないので、恒久的な個体数の異常膨脹の生物現象は報告されていない。
神などと言う、その場しのぎの脳内革命を考え出して、思考の産物を脳外措定することで、精神的破綻を回避したように見えた。しかし、まともなヒトの一部は、自死する勇気を失うことなく、自裁能力を維持しながら生命を全うしている。
さて、オラが、環境問題に首から上だけだが、関心を持ったのは、今から35年前だった。以後長い時間が経過したが、行動面では格別語るべきものを持たない。あえて捜せば、ペットを飼わないようにしているくらいだが、これはもちろん環境問題でもあるが、その前に自己の経済的に貧しい消費生活の永続状態を隠すべきでないのだ。しかし将来資金繰りが好転しても、ユネスコの難民救済事業が存続する限りは、ペット・アパルト・キャンペーンを声を挙げる事なく続けるつもりである。そしてエコノミスト(=経済学人)の一人として、人口と食糧の関係は常に関心を保ち続けて行きたいと想う。
35年前とする根拠を念のため捜してみた。2つ見つかった。1つは、ローマ・クラブ「人類の危機」レポートである。1972年ダイヤモンド社から発刊された『成長の限界』である。
この警告は、当時かなりメディアにも取上げられたが、残念ながら強欲な財界人や政界人がリードする日米では速やかに神棚の奥に埃を被る存在にされ、その後、バブル景気と泡沫破裂とが何度も起った。
2つ目は、1978年にみすず書房から刊行された「玉野井芳郎著、エコノミーとエコロジー」である。因にオラとしては珍しく刊行した年のうちに読破したことになっている。
さて、そろそろペンを置く頃だが、人類が技術依存の堕落した生き方へ踏み出したところの偶然的に生じた変革は、数多い。しかし、その最初のしかも最大の変革は、二本足歩行なる生物学的変移にあるであろう。その後に、火を使う、金属の還元と道具による加工、食糧の生産、言葉の精密化と記録方法としての記号の発明へと、一連の革命が派生したと考えたい。その結果としての、個体数の爆発が、あらゆるマイナス要素をもたらしたのである。それらの呼び名を掲げて本論は閉じることとする。
一神教、君主独裁、民主主義、競争資本個人原理、世界大戦、いずれも人口過剰がもたらした過剰で異常な競争が招いた人類の生物としての堕落現象である