閑人耄語抄No.28

No.28  まず蟹が  次いで猿出る  若狭寺
 〔自註〕 この秋のはじめ頃、秋田県は角館を訪ねた。彼の地に生まれ、間もなく消えてしまった場違いの描法絵画に因んで開催された「秋田蘭画とその周辺展」・・・小田野直武生誕260年・・・を見に行った。狭い町の中に散在する3つの美術・工芸・文学館が分担してひとつのテーマを扱うと言う、気の利いた展示であったので、3日間もかけて悠々鑑賞したと言うべきだが、実を言うと生来の道草癖がでただけのことである。誰が無責任に言い出したか小京都などと呼ばれる、古い武家屋敷があったり、天然温泉、園芸集団興行場、深山幽谷が近隣に散在したりで、それなりに多忙で、満足感に浸ったのであった。
だが、宿題が2つ残ってしまった。その第1は、町中にある神明社が、菅江真澄の終焉の地であったことである。こちらのコースを追いかけるのは、今後相当の時間がかかりそうなので、ここでは全く触れないことにする。彼の生涯は長く、その行動軌跡は相当に広汎らしい、、、
宿題の第2は、若狭の国、小浜を訪ねることである。米国大統領訪日のタイミングで、小浜を訪れたわけではない。たまたまタイミングが重なっただけのこと。
さて、東北・角館と北陸・小浜とどう結びつくか?このクイズに即答できるとしたら、かなりのオランダ通であるこの地を結ぶキーワードは、自転車ではない、解体新書がピンポーンである。この日本最初の翻訳された西洋医学解剖書の制作に絡んだ絵師小田野直武が角館人で、蘭方医師として翻訳出版を果たした杉田玄白が小浜ゆかりの人である。因にここで「ゆかり」とするのは、小浜藩主酒井家の藩医の家の子として藩医をも務めたらしいことによる。玄白の生地ならびに活躍し終焉の地は江戸であったから、所属のみ小浜ですべては江戸にあったと言うべきかもしれない。
さて、詩の舞台であるが、若狭とは旧国名であって、そのような名の寺があるかどうかは知らない。何故か越前と若狭は、明治になってからだが、ともに福井県となった。何故かと言うのは、著者の個人的な見解でしかない、いつもつい出てしまう不用意なコトバだが、こんなにも地理的に地政学的に一体性の乏しい土地同士がひとつの県にされてしまう、120年も経過してなお一体性が備わらないことに、明治新政の底意地の悪さを感じてしまうのである。
だがしかし、互いに隣り合っている地域であると言う単純な同理性はあるのだが、平成の合併では、越境合併や飛び地合併もあるから、その事態はどうでも良いのかもしれない。更に時間軸と区間軸をロングワイドにして人類史とユーラシアスケールで俯瞰すれば、共通性はある。どちらも、対岸が大陸であり半島であること、日本歴史の有史草創期におびただしい数の渡来民が移住定着し列島人口が急激に増加した時の上陸地経由地は、若狭・越前を含む日本海沿岸一帯であったし、大陸の中でも半島交易の表玄関は、能登から若狭の間にまず上陸し、そこから都のあった近畿圏域に陸上移動したのであった。風と帆による渡海は、対馬海流リマン海流が到達港と公開日数とを決めたようだ。腕の良い船乗りが、出帆する日と港とを決めたが、体験的に行き先と海上滞在日数は予測できていたに違いないが、安全確率は極度に低かったに違いないのである。
ついでに福井県に纏められたもう一つ理由だが、幕藩体制下では越前松平、若狭酒井はともに有力譜代大名であったから
、アンチ勢力が台頭した明治体制下で冷や飯を食わされたのも已むなしと言うべきかである。若狭をどこに付けるべきであったかと言えば地理的には、丹後や丹波、近江の方が合理性高いと想う。
小浜にある羽賀寺(=はがでら)を訪ねた日は、氷雨に近い、ほぼ一日中冷たい雨が降る日であった。若狭湾のうちにある小浜湾の奥にある港町小浜を囲むように半島の峰や背後の山並みが切り立ち、市街地をなす平地はごく浅い、このような地形は、おそらくリアス式なのであろうか、国定公園に相応しい景観である。しかも、国指定の国宝・重文の寺が多くあるらしい。
この寺も、建物、仏像、教典など重文が5つあるとか、、、こんな日は、雨と風を避けて建物に逃込むべきだ。向う寺は、山をバックに建ち、道は登りだ。おや、パートナーが、立ち止って足元を覗き込んでいる。地面に蟹がいると言う、雨の山道は薄暗い。動かないから砂利に紛れている。やっとそれと判った。
境内も本堂も貸切であった。係員の説明は、丁寧であった。小一時間も過ごしたろうか、昼近くなっても雨は已みそうになかった。天候を味方にして、じっくり見た。見て判るほどの力や知識は無いのだが、外よりは屋内の方が少しは暖かいに違いない。と言っても、それほど見るものがあるわけでもないので、やっと傘で軒から落ちる雨を受けはじめた。その傘の柄のはるか先を、赤い太腿が悠々と歩いて行くのが見えた。メタボ猿であった。蟹と猿がセットなのは、おとぎ話のセカイだろ。笑った、寒いと想った。
さて、本堂の脇楼に二体の彫像があった。仏像ではない、法体と束帯の武士だ。安倍愛季、実季の父子胡座座全身肖像で、県指定文化財だと言う。説明板があった。長くてよく判らなかった。江戸の始め頃、青森県十三港を拠点とした有力武士、この寺の修造に貢献したとのこと、、、遠過ぎる?、何となく時代と氏族名とが食い違う?ような気がする。
だが、待てよ。その昔、NHKの朝ドラかなんかで、「チリトテチン」だったか、小浜出身の女流落語家が誕生するストーリーの放映があったようだ。漆塗りの職人が出て来て小浜と大坂はとても近いように描いていた。
それはオバマ選出報道より前だったかどうだったか?それはどうでも良い脇道で、ここでの主役は漆だ。津軽にも津軽塗りがあって、小浜から技術移転したとの記憶がある。帰宅して蔵書に当った。大名の津軽信政(1646〜1710)は、藩内の殖産興業に力を尽くし、漆を飢え、小浜から塗師の池田源兵衛を招いた。津軽のバカ塗はこの時に始まり、ついでに時代は室町期に遡り、十三湊を拠点とした安東水軍(古く安倍とも、下って秋田氏と名乗る)が、能登に運んだものが青森地方特産のヒバの木だと書いてある。今日の能登には、輪島塗りという強力な漆塗り産業が立地するが、当時能登には漆工芸の木地となるヒバは無く、青森から運んで造林したものだとも書いてある<富山和子著、水の文化史より、1980文芸春秋刊>。北から津軽、輪島、小浜は、海運が繋ぐ、古くからの漆塗り三姉妹の関係にあるのだ。