閑人耄語抄No.27

No.27  もない盆  はぬいの裾に  秋迫る
〔自註〕 もない盆とは、ここでは西馬音内(=にしもないと読む)の盆踊りを示したつもりである。五音におさめる必要から、尻でなく頭の方を切り落したもので、沈痛の限りだが已むをえない。秋田県は内陸南にある湯沢市に接する羽後町(=うごまち)に伝わる、特異な風俗でもって名高い盆踊りである。
はぬいとは、踊り手の衣装のことだ。この地でじかに聴き取ったが、文字として「端縫」であることが、後で判った。
定形に拘れば、17音で構成される世界で最も短い詩であるから感じたままをぶつける。耳から入ったものを感じる人だけが感じる。それに尽きると言えよう。文芸、絵画、音曲などは概ねそのようなものであろう。
その時、その場に身を置いた者の胸に去来したものは、どこかうらさびしい想いであった。
盆踊りは決して寂しいことはない。踊りのしぐさも、鉦・太鼓も男性群が発する音頭と甚句の声調も華やかである。歌詞の内容は方言なまりが強く、どんどん唄い進めるし、何種類もあるので、意味が掴めないこと甚だしいが、艶っぽいのから、笑いを誘うものなど、過激にわいせつなものもあるらしい。
だがしかし、夜更けて通り一杯に踊り手が溢れる頃、テンポは徐々に速さを増し、激しくターンすると道路に撒かれた砂と草履とが擦れる。まるで海辺に寄せる波の音である。脳裏に浮んだのは、迫り来る秋の風景であった。
盆踊りとは、何なのか?おそらく、土地により、人により、その意味合いはさまざまであろう。
その昔を、現代から想像することで、当時の人と同じ感慨を味わうことは到底無理である。
だが、盆は、古俗が色濃く残る数少ない年中行事の第一であろう。江戸時代に仏教習俗として加色されているとしても、この故郷(くに)特有の先祖との交流の作法とも呼ぶべきものは、かなり色濃く古いままで受継がれていると感じた。
霊的なものは、科学的に理解しようとすることが、ナンセンスでインヴィジブルな領域である。筆者は何事につけて鈍感な方で、しかも霊感の強い友人もいない。だからこそ、今のところ否定も肯定もしない。科学は部分知でしかないと思うし、いつの日か感度を身に備えること無しとしないのだから、その時にそれなりの結論に至ればよいと思う。
盆のセレモニーの中で、盆踊りはおそらくフィナーレであろう。霊界から一時的に戻って来た先祖が、再び霊界に戻って行く最後の交流セッションが、踊りなのであろう。だからこそ、盆踊りの主役は、感じやすい子供と女なのである。男は、唄い手であったり、鳴り物担当であったり、脇役に徹している。
はぬいは、名前のとおり、端切れ布を縫い合わせて、出来ている。はぬいは、その性格上女の衣装である。夜陰の中、遠目でも、踊り手同士は、体形としぐさで誰かであるかをまず決め、すれ違い様に「はぬい」を見ることで、どこ家の娘かが、しかと判るのだそうだ。そして、はぬいを見つつ、それを身に付けていた人の生前の姿を想い描くのだ。
これまでに言いそびれたが、踊り手は顔を隠している。顔を隠す方法が不気味ですらある。「ひこそ頭巾」なる黒い布で、首から上が隠される。その異様さに、世の人はいろいろな解釈をつくり出す。殿様が美女探ししたとか、戦乱の世に悲惨な死を遂げた亡霊を弔らったとか、、、どれかひとつに無理して絞り込むべきではないと思う。
だがしかし、顔が見えないことのメリットはある。想像力が増すのである。踊りながら互いの踊りを見ている。踊らない人も踊る人の姿をとおして、かつてこの世にあった先祖やつれ合いの将来の立ち居振る舞いを頭の中に描く。おそらく、先祖の霊もまた踊る子孫の体形から若き日の自らの姿を見透しているのであろう。子孫は確実に先祖のコピーであることを、踊りを営む集落の全員が共有する。それが盆踊りの意味のひとつである。頭巾を被らない人は、深編み笠であるから、顔は隠れている。
はぬいは、母の、そのまた母の、そしてまたその母の着ていた着物の断裂であったり、残り布の良い柄であったり、幼くして逝った娘の晴れ着の一部であったり、その家に伝わる数世代かそれ以上の長さの布切れの集積なのであるから、まさに衣装においても先祖と一体となって、心持ちを添えて踊るのだ。
端縫いは、その家に生まれあるいは嫁いで来てその家の人となった代々の祖先の着物オンパレードのパッチワークとして研究の対象となりえる風俗文化財でもある。
もちろん踊り手の衣装は、はぬいばかりではない。藍の絞りと言う高価なものもある。だがしかし、際立っていることは、他の土地に見られるような揃いの柄物が無いことである。一品もので貫ぬこうとする強い意志が伺える。先祖と交流する仕掛と通ずるのであろうか
そうそう、このことについては、「ふりゅう」と理解することもできる。広辞苑を引いてみて欲しい。奥も幅もあることばだから、、、、男装の衣装で踊る婦人の装身具もまた印籠やら根付などとまったくもって男ざまである。
あれやこれやと、かつての古い文化が一杯詰まっている。だからこそ、時代時代の為政者は、集落の者達が一同に会することの危険性を感じつつも、禁止することが出来なかったのであろう。太陽の恵み薄い東北の地には、小氷期の寒い春・夏・秋の飢饉もあった。だがしかし、禁ずることから生ずるであろう反発や暴発もまた怖れていたであろう。先祖との精神交流の場でもあり、一年に一度の「かぶく場」として精神を昂揚させ発散する場でもあったのだ。
そのような精神の連帯に根ざす集落の行事は、アトラクションとは最も遠いように思う。現代では観光目的で訪れるニーズに備えて桟敷席も構築される。だが、かの有名な東北の夏祭りとは、大きくタイミングが離れている。
現代のもう一つの難しさは、暦である。明治以後太陽暦となってから、月の十五日はすなわち満月の夜と重ならなくなったのである。それ以前は、満月のある夜だけが明るい夜であり、神々と生きるものが交流できることを許されたのである。