閑人耄語抄No.26

No.26  柿ひとつ  色づく里に  望の月
 〔自註〕 10月3日は、中秋の名月だと言う。この日は幸いに晴れて、西空の夕雲はかなり複雑に面白く暴れ、薄雲を貫ぬくあかね色の光線が、夕陽の所在を示す。これは家路へ向う道すがらの景色であるが、振向けば、そこに月が、、、とはならない。それほど広大な眺望ではないからである。
月の出は、家に着いてからだ。東に山があり、西に海がある、だからここでの「月は東に 日は西に」は、山の端に月が出て、水平な地面の果てに夕陽が落ちる、地の果てはごく近くすぐそこに海が迫っていることが織込みなので、頭の中ではいつも海に没するさまを描いている。これが大雑把な地形である。
山の連なりは、富樫丘陵と呼ぶ。「とがし」とは、あの勧進帳に出て来る関守の富樫氏であろう。富樫丘陵を北に辿れば高尾山と呼ぶ一際高い峰がある。そこに加賀の守護であった富樫氏が築いた山城があったと言う。室町時代最後の加賀守護であった富樫政親(とがしまさちか。1455〜88)が、一向一揆の軍勢に包囲されて自害した場所であると言う。平野に接した端の山だが、かなりの勾配を保って立上がり、とうてい里山とは言いがたい。土地のコトバでは『たこ、または、たこう』と呼ぶ。ただ、同じ市内の山群に同名の峰があるせいか、他方に「奥」を冠して呼んでいるらしい。
いささか、脇講釈が長いが、断りを二つ書いておきたい、、、まず、あの安宅の関に構える富樫氏だが、文学上の存在であって史実と見るべきでないこと。今もって、義経一行の奥州脱出経路は、海路説から陸路でも美濃飛騨経由説など、加賀人には承服しがたい異説があるのだ。
ついで、一向一揆のことだが、これは歴史用語としての使用であることを注記しておきたい。この用語をある歴史事象を指し示すコトバとして使わないと一般的に意味が通じないので、不本意ながら已むなく歴史用語として掲げたに過ぎない。
歴史事象である武力的対立を要約するコトバ=つまりタイトルに当る歴史用語の確定は、本来中立的かつ客観的であるべきである。と筆者は考える。それに対して、タイトルに一揆命名するのは、明らかに命名のスタンスが偏っていることを示している。対立関係にある一方を正当とし、他方を不当におとしめている。
別の言い方で具体化しよう。高尾城で負けたのは、室町将軍から守護職に任命された富樫であり、勝ったのは、浄土真宗教団に一本化された土着の農民層とそれを束ねた在地武士団の集合体である所謂民衆である。以後、加賀一国の政治的統括は、民衆が実権支配した。これを『百姓ノ持タル国』とも言う。こっちの方は、中立的かつ客観的な歴史用語であるが、いささか長く、ある年齢層と立場の人達には通じないのである。それは、きっと教科書検定と関係するのであろうが、官職にある方を「上」とし、民衆の方は官職ある者に無条件に従うべき「下」として、固定的に位置づけようとする歴史家の意図がある。つまり、そこにこそ中立性も普遍的世界観も欠けているのである。更に、別の言い方がある「下克上」だ。このイデオロギーは、力の存在と正当性とを分離できない点において、幼児的ですらある。「上克下」があるべき正当な姿であって、それが逆転した時代は、ネガティブな暗黒時代と切捨てると言う、ある意味で思想統制の反映である。因に、この一時期を除いて、国民の歴史は勝者=正義の単純単細胞史観で描かれている。古代史の「磐井の乱」(527〜8)などは、敗者が則ち反乱者とされており、あまりの明快さに風邪を引きそうである。
国民の歴史と市民の歴史とは、用語・タイトルからして別である。市民社会では、コトバこそが大事なのである。
さて、3日の宵に 望の月(=もちのつき) としたが、次の日になって、少し慌てた。
4日にラジオで聞いた。中秋の名月は3日で、満月は翌4日であるとのこと。
俄かには呑込めなかった。今でもよく判らないが、すっきりしない。
太陽暦の今日と太陰暦時代であったその昔とのズレなのかもしれない。月を中核に据えた暦では、月の初めは朔日=新月、つまり夜空に月は見えない。15日は望=満月で、空が晴れていれば、それぞれの東の空から餅のような、盆のような「つき」が出て来る。
明治改暦以前は、日付の進行と月の満ち欠けは、対応する関係であった。さすれば、満月と十五夜と名月の3つは、一体であった。
だが、太陽暦の下では、月齢は地球の裏側を通過中に15.0を越すこともあるだろうか?西半球にも月を眺めるルナティックなお嬢さんが居るそうだから?
名月とは、山の端であれ、海上であれ、それぞれの水平線上に顔を覘かせる「つき」、動いている生きものの「つき」を言うのだ。
頭上にあって、動きの判らない、深夜の月は、名月ではないのである。