閑人耄語抄−24

No.24   有明に  ウグイス啼くも  峰の原
 〔自註〕 前宵、菅平湖の周回道路で運良く、満月を一瞬垣間見た後、その夜は、菅平高原の中で夜を過ごした。
ありていに言えば、野宿である。高原の朝は、何とも爽快である。言葉で表現できるものは少ない。
早朝から、鳥の声がする。自然と起こされる。幸い晴れていた。西の空に見える明け方の月を「ありあけ」と言う。
捜してみた。あった。十の原<=とうのはら>は大きい木がある。西の空は狭い。月は間もなく視界の外に、、、
鳥の声が聞える。姿は見えない。音だけで名前を決めてやろう、何とも大胆な野望だが、、、何となく判ったようだ。
ウグイスであった。未熟な?啼き方と言うか、、、人間にはなじまない、、、でも長く時間をかけて聞いた。
ウグイスに間違いない。ホーホケ・・・・とは、ヒトが勝手に、そう決めつけているだけのこと。
既定の、それはだからこそ他者の体験であって、アトから人の世に生まれて來た者にすれば、耳学問としての経験でしかない、
その経験に誰よりも早く順応すること、既製の知識に長けることはヒトとして有能であって、
それに高学歴高収入の実績が加わると優秀とされる。
だが、それは系統発生の法則に逆らっているように想える。
本来あるべきは、まず個性として身に備わる感性、個としての体験が体内に充満する。
次にそれが他者に向って発露する。その過程で、段階的に自己の外部にあるつまり社会既定の知識体系との摺合わせが徐々に始まる。
そして自己学習の必要を感ずるようになって、教育の場に身を置きたいように想った時に修学の場に臨む。
それがよいのではないだろうか?
だがしかし、現実は別だ。眼前にある環境、画一的規制が溢れ、情報過剰の巷では難しい。
6歳は義務として教育の場に身を置くことが、國から強制される。個人の発達程度や進行段階の差は、無視される。
活字による新聞・雑誌、ラジオ、TVなどなど、騒音と雑像だらけの情報発信過剰の環境に置かれても、動じることなく上手に取捨選択を行う訓練だけが身に付いているようだ。
がしかし、音も絵も何も無い場所で、平常の心が保てない「情報飢餓シンドローム」を発症するオタク族も多いらしい。
「ウオークマン置忘れ恐怖症」と『腕時計したまま入浴習慣病』と【365日24時間セルラーフォン首提げ習慣病】とは、同根の病いである。
ここまで書いて来て、筆者もまた、同病であることに気付いた。
いまやPCが無いと、手紙一つ書けないのである。意味と発音はいけても、漢字のイメージはアタマに浮ぶものの。紙の上に実現しなくなってしまっている。もう全快の見込は無い。
そのことに、約10年前に気が付いた。PCが故障した。この時辞書を見つけてどうにか手紙を書いた。
出した後も、一つ一つの文字がサマになってないばかりか、部品が欠けているのでは?と、あとあと悩まされた。
さて、その時、機械文明から足を洗おうとは想わなかった。むしろ、もっと高速に動くPCに買替えたのであった。
だが、間もなくホームレスに対して、格別の畏敬の念を抱くようになった。
そして、自らが脱文明としての文化に軸足を移す生活の準備をゆっくりと始めた。
そこにも、先駆者、先人が居た。世界のマージナルエリアに生きる先住民と言われる人たちである。
多くのニッポンジンは、彼等を遅れたネガティヴな生き方をするダークな人と見るらしいが、、、、
それもまた、既製の観念による色付きであって、しかも当の本人は色が無いと思い込んでいるサングラスを通しての景色でしかないのだ。
生来身に備わる個々人の感性でもって実見してから、内心に潜めて他人には口外しない、固有の価値観をゆっくり形成すればよいのだ。
その時、当人に見えないサングラスとは何であったかが、理解できるであろう。
感性と便利さとは、生活レベルにおいて、バーター・トレードの関係にあるらしい。
その両者の間を行きつ戻りつしているのが、ホウムレスの実践過程なのかも知れない。