じじぃばくだん<爺ぃ獏談>

じじぃばくだん ・・・ プロローグ  <爺ぃ獏談> ’09.8.29
 今日から新しいコーナーを始めることとした。新しいコーナーの立上げにあたり、コーナーで展開する内容とタイトルについて、動機の一端を表明しておきたい。
内容は、主に時事問題だが、情報入手の環境、受止める状況において、放談するほどの立場に身を置いているわけでもない。
そこで爺ぃが獏談をする。まあそんな動機に相応しいタイトルにした。
さて、その時々に耳を汚すことの多い昨今である。今日ただ今が情報革命の進行途上にあることとおそらく無関係では無かろう。
ワットじじぃが、時事情報を受止める状況とはこうである。事件現場に身を置くことは、今までもこれからも殆ど全く無いであろう。よって、ニュウスソースは、既成メディアによる報道であって、全くもって所謂二次情報であることだ。
それからワットじじぃが行うことは、得意とする独断と偏見による取捨選択を敢行することだ。だからフレッシュさやリアリティーさは、ワットじじぃがたまたま接した情報(=当該メディアにとっては一次情報)の鮮度と信頼度と見識度に左右されることになろう。ただし、某国営放送にのみ偏よるようなニュウスソースの絞込みは、あえて墓穴を掘るような愚行なので、厳に戒めている。
さいごに独断と偏見に備わる拠って来るところの時間軸と区間軸にかかる制約状況を示したい。つまりここではコメントする者の能力の限界を予め示しておきたい。それは、より端的には、今後行う個々のコメントの中に隠そうとしても隠せない「裸のオウさま」然として立上がることは避けられないのだが、この立上げにおいて述べるべきは、〔 環境がヒトを作る 〕 の一言に尽きるようだ。
そこで、まず少年時代つまりワットじじぃの体感的時間軸と空間軸を披瀝しつつ、独断と偏見についての第1の基準=「もの」として、何が必要であり、そして不要かを見極めるワット・スタンダードを紹介する。少年時代は一言で要約すると、貧しくかつ辺境に尽きるが、我が少年時代に無くて今日我が身の回りにある「もの」を不要物と措定したい。不要物を情報メディアに係る「もの」に限れば、電話、ファクシミリコピー機、TV、パソコンがある。3つくらいに止めたかったが、メディア不要物は5つになってしまった。
ここでいささか脱線だが、読者の抱くであろう疑問への備えをしておきたい。まず、もし読者の中にワット第1基準に代わるべき普遍的スタンダードを示すことが出来る方がいらしたら、基準差換を考えたい。無学・浅才な我が<爺ぃ獏談>輩としては諸手を挙げてそれを採用したい。なぜならこれまで生涯を注いだが、納得できるスタンダードが見つからなかったからだ。
さはさりながら、行きがかりでもあり、ワット第1基準を続けよう。
これら5点グッズが無いと不便であるのは事実だが、それが無くともワットじじぃ少年時代は生きかつ育って来たのだからして、体感的かつ実験社会学的に限りなく不要物であると決めつけて良いのではないか?
これは誰でも体感し、そして納得できる。国内外を問わず旅行をした状態を想定すればよい。5点グッズを全部携行して旅してみよう。
次に、サハラ砂漠を横断してみよう?仮に2週間かかるとして、果たして全期間を通じて本拠である日本とコンタクトを保てるだろうか?電源とか、砂嵐とかに対するプルーフは?
そう、生命の存続を要不要の分れ目としたい。
要するに過去、現在そして将来を通じて、眼前にある「もの」すべてを与件として受止めるべきでない。不断の検証を経た後に受容しよう。
次いで第2の基準=これで終わりだが=電話が無かった。そう、究極の不便である。
ここには、この国の価値観が、尤もである。と果たして言えるかどうか?微妙な課題が潜んでいる。
そして〔 環境がヒトを作る 〕 ように、ワットじじぃが少年時代から歪んでいたか、そうでないかを見極めるための基礎的環境条件である。
さすがに高校卒業<1960年代半ば>時点では、クラス50名中電話が無い家は唯一軒であったようだ。呼出し電話もまた無かった。要するに再度補足すると、貧しい時代のプアーで、かつ辺境の中のカントリーフォレストに生きていたのだ。
電話は、今では民間マターがビジネスするサービスである。官憲が盗聴する時には、協力する義務があるようだから、今でも準公的サービス事業であるかも知れない。但し、当時は三公社五現業と呼ばれる、厳然たる官営事業であり、電話を引いてもらうためには、設置費用の負担の他に、電話を必要とする積極的理由が必要であった。要するにカネが全てでは無かった。カネを出しても越えられない、強力・頑固な官尊民卑の壁があった。
官民ランクは、社会全般に及ぼさるべき人品骨柄ランクでもあった。これは身近なランクとして、体験を言うと、父親が警察官の家には、公務上の連絡確保のため最優先ランクで、既に設置されてあった。民間でも家業がそば屋でしかも出前があれば優先度はより高いとされ、同じ民間でも一般住宅の建具屋だと事業内容が採寸などあって電話で完結しないため列後扱いとされた。
ワットじじぃの家は、一民間会社のフツウのサラリーマンであったから最劣後ランクであった。とほほ、、、、
これが業種別・職種別・職位別によるランクの一端であった。
ついでに空間軸ランクも言っておく。当時の日本列島は、もっと広く長かった、國に電話網の設置整備基準がある。
今では市外電話は死語になりつつあるが、その昔は、予め予約して1日待たされて、やっと相手先に繋がったが、とうの相手は外出不在、そんなことはざらであった。
列島の太平洋側を優先し日本海側を劣後させる。電話網の設置や更新に着手する際、同じ日本海側でもA県とB県とでは、いつもAをBより先に処理するのだ。それは一方がより遠いとか、より北に位置するとか、そのような基準によらないらしい。電話網における県別ランキングは、アップトゥーデイトな課題だが、あの時強制購入させられた公社債券が償還されないまま、法的請求権を強制放棄させる法律が成立したように、行政密着の名ばかり民間プライベート企業は過去の事ならずとも、企業秘密の壁に隠れるであろう。
ケータイ電話やインターネット電話が出現して、ダブル・トリプルゲートが構築された。現代的意味はとうに失われたと思いたいが、、、
たかが電話、されど電話、この国の個人体験史では、電話の有無は、家柄や身分を間接的に証明する、最もクリアーな人品骨柄ランクであった。
まだ続く。ワットじじぃ少年には、更なるハンディがあった。開拓民の子であった。
その地は、開拓前はカントリーフォレストであった。日本列島中の辺境の中の辺境、かつまた最辺境のマージナル・エッジであった。
データをもって言おう。地方基幹道路から約100メートル、両隣とは約50メートル、残る一方は里山につき見通し困難、計測不能の四周条件だから、我家までの電話線架設は費用負担があった。情報開示ルール以前の昔だから建設コスト以上の負担を求められ、それはおそらく相当多額で、負担に耐えられないほど貧しい家計であったのだ。
以上が独断と偏見の由来である。

*じじぃばくだんNo.1 ・・・  ’09.8.29   <爺ぃ獏談>
メディアによれば、昨日タレントの『のりピー』が、麻薬所持で起訴されたと言う。
その事実に対して、特にコメントすべき要素は無い。
問題にすべきは、これまでのメディアの報道姿勢である。夫の逮捕以来、連日の過剰なリリースに、何度チャンネルを変えたことだろうか?
日々の各社の報道にこれ以上詳細に踏込む必要は覚えないが、2〜3点猛省を促したい事を簡約して述べておく。
第1=報道ヴォリュームが多過ぎる。ニュウス枠の中で1日1回1分以内で、単なる経過報道、つまり前回報道内容以後その内容に報道すべき変化があった場合に限って取上げる事実報道に徹するべきである。
第2=司法における裁判員制度が、今月からスタートしているが、その事を踏まえて、メディアの報道姿勢は、どう変ったのかを検証しなければならない。それは、まずメディア自身が自らどこがどう変ったかを公表しなければならない。次いで、将来いつか裁判員になるであろう国民一人一人が、このままで良いかどうかを考えるべきである。
第3=のりピーは、これまで身柄を警察に拘束されていて、外部の誰とも接触できない状態にある。にもかかわらず、彼女の発言らしい報道が連日行われた。これは人権擁護の立場から考えると相当に危ない事態である。
報道スタイルが、これまでもそうだったから、そのことに気が付き、そこまで想いを致したヒトは、少ないであろう。実はそこにこそ、この国の深刻な課題があるのだ。容疑者のコメントを録画などでそのまま流すならまだしも、取調べの警察官がリークしたコトバをメディアが取材して流すなどに至っては、不明朗であるばかりか、意図してねつ造された官憲による大衆誘導プロパガンダの臭みすら濃厚だ。のりピー・ファミリーの崩壊はおろか社会復帰困難のおそれすらある。警察とメディアに、そこまで私人を破滅させる大権は付与されてないのだ。深刻な人権侵害である。
第4=人権問題は、難しいから、専門家に任せておけば良い。と言うヒトが多い。裁判員任命拒否の声と同根のガヴァナンス風潮である。実に社会的責任放棄と言うか、古い言い方での非国民的態度であって、非難されるべきだ。
更に踏込んで質問するとしよう。
その専門家とは、具体的には誰を指すのか?と尋ねる。答は決まって判らない。自分は犯罪者になることは無いから、そんなことどうでも良いと言わはる。
第5=そこで、冤罪問題を忘れてませんかと言いたい。足利事件のことである。最高裁まで審理されて、17年間もの長きに亘って収監された後、無罪放免された。彼に起ったことは、このような人権後進国では、誰にでも起り得る懸念がある。
松本サリン事件。これは相当昔の事件だが、あの時以来今も何も変わっていないから危ないのだ。その後、無実の者を拘束した県警と地元メディアの関係が改まったとは、思わない。懲りない存在ほど困った事は無い。官憲とメディアの癒着とも言うべき関係は全くもって続いている。人権無視の情報源独占による情報操作体制こそが、大問題なのである。何度同じ過ちを犯しても責任を問われない、だから反省もせず、自己改革も組織組替えもしない。100年寝たろう状態が続いている。同じ災難が明日起らない保障は無いのである。
第6=警察がリークした取調べ情報をメディアが報道すると言う、実に困ったスタイルは、足利事件発覚以後も続いている。最も人権問題に身近な位置にある法曹界から、強力な改善要求があってしかるべきである。そして出来れば国民各層から同じ要求の声が起きるべきだと思う。がしかし、現状は実に寂しいのである。大国ニッポンと折々言われるが、人権後進国から脱却する動きが乏しいのは、メディア操作による愚民誘導策にすっかり載せらるおめでたいヒトが大勢だからである。ワットじじぃは落胆している。しかも百年一日のごとく全く改善しないことに幻滅すら感じている。
最後に、見直し提言をしたい。
A=タレントにもプライヴァシーを、
B=メディアの数が多過ぎる。放映時間も長過ぎる。この業界は、地球環境を考え、CO2カットにまず最初に手を挙げよ。
C=麻薬の服用は自傷自壊の行為である。警察が市民個人の生活やタレントと言えども一夫婦の間の関係に立入ってどうのこうのと教訓めいたことを言って良いものだろうか?現代先進市民社会であるニッポンとしては、そろそろ自己責任原則に立って、もっと幅広く自立したいものだ。昨今は飢死する自由すら保障されるくらい失業者が溢れ、低賃金に喘いでいるのだから、医師に服用処方してもらって合法的に麻酔薬に耽る行為と、果たしてどれだけの差がある重大犯罪に当るのかを聴きたいものである。
D=美女と出会うのは、高山渓谷で深呼吸するのと同じようなものである。と言っても、何をもって美と決めるかが難しいので、人それぞれの感じ方に従いたい。他人に清涼感をもたらす水辺のマイナスイオン発散者は、当代市民共有無形資産として、大事にされて良いのではないか?
今日はこれまでです