閑人耄語抄−20

No.20  旅ゆけば  とにかく道路と  墓ばかり
 〔自註〕 旅とは、時代によって大きく変る。それはスタイルだけを言っているわけではない。
筆者の60年を振返るだけでも、徒歩から始まり、乗合自動車に乗っての親族訪問、それから鉄道列車での修学旅行、自転車での通学、船旅による瀬戸内海横断、飛行機での北海道からの帰路とまあ、そんな順序で体験して来た。
あそうそう、下校時に馬車や牛が引く農作業車の尻に乗って、御者の長い鞭でひっぱたかれたっけ、、、
最近は、マイカーによる近県への物見遊山を、型通りにやっている。
それだけのこと。
34年間の長い空白があって、再び以前の居住地近辺に住んでみると、何とも奇妙なことがあるのだった。
都市名も国道番号も以前と同じなのだが、周辺の景色が記憶の風景と何となく違う。
ある時、古い知人に再会したので、そのへんのことを話した。
なお、この辺は、過ぎた大戦でも、空襲によるインフラの徹底破壊は無かった地域である。
定住する自家用車世代のその知人は、道路の変遷を概説した。筆者が口にした施設は、現存するとのこと。
彼が言うには、その施設の前面道路は、今は、旧国道と呼ばれるようになってしまった。
その施設が建ったのは、その道路が新規に建設され開通した頃だった。
地方主要道に依存するビジネスは、道路と同じ運命を辿るらしい。更に古い道も残っているとか。
後日その施設を覗き見た。稼働中ではあるが、リニュウアルすべき時期はとうに過ぎた様相であり、経営の厳しさは、前面道路の役割と同じ運命をたどっているように見えた。
さて、句の意味だが、古い道にも新しい道にも格別の興味は無い。今の旅は、芭蕉の時代のそれと異なり、命懸けの不便さも、だからこそ,その見返りでもある感動も無い。
まして、地震や洪水にでも遭遇しない限り、誰一人として、途中のそれも道路に対して関心を持つことはないであろう。
出発地から目的地にシャトルのように行く、関心のありようもまた同じ、、、ここでは団体で行く慰安型旅行は想定外だ。
何でもみてやろうとは思わないが、長く生きていると古いスタイルの旅を想うことがある。
なんと、道路の多いことだろうか?
路線名は、34年前と同じだが、拡幅、改良、バイパス、新ルート付替などなど。
しかも、バイパスも新ルート付替も古い道路は、そのままにしての増設である。
だからこそ、カーナヴィなる道路案内嬢による音声ガイド付き誘導装置が成立つのだそうだ。
もしどこへ行くも一本道ばかりだったら、道路地図で十分なのだから、、、
ナヴィのような高価な装置が売れる、これもまた、この国固有の現象かも?
果たしてサミュエル・ハンチントン先生は、この国の「抜駆け大好きスピリット」をご存知かしらん?
ロードサイドは、山あり川あり、田あり畑ありだが、ほとんど集落の出入り付近に、こじんまりとかたまって墓石群が見える。
ざっとみた感じ、墓石にも何と流行があるらしい。そして漠然とだが、そのスタイル・佇まいは、前面道路と時代相が合致するように見える。
ここまでである。
以下は、想像でしかない。
道路建設も墓石更新もともにGDPを押上げ、雇用機会の増加であろう。
だが、しかし、それをしないと地方が元気になれないとか?
地方経済の活性化に公共投資は必要だとか?
待てよ、それは、美辞麗句による事実のすり替えだよ。
有り余る道路は、インフラではあるが、活性とも公共とも遥かに遠い存在のインフラだ。
まして、孫や子の世代でも払いキレないほどの膨大な国公債を積増してまで 実施するべきニーズは乏しい。
このペースで道路を作り続けたら、この狭い国土は、道路と墓地ばかりになってしまう。
IT革命が進行中だが、その進行が一段落した時に、現今産業社会下のこれほどの輸送ニーズが、果たして引続き必要であろうか?
眼の前の最新道路が、ピラミッドと同じ扱いになるのではないか?
その時、タイトルはこう付けよう。行過ぎたマイナス符合付き産業遺産
他方、墓石の所有者は、きっとこう答えるであろう。先祖伝来の土地を、泣く泣く國に差出した、先祖に対して申し訳ないから、せめて志でもと墓を立派にすることで勘弁してもらったよ、、、と。
筆者は、口を固く結んで、心の中でつぶやいた。ああ、あのマッカーサーから地主就任状を受取った先祖のことだねと、、、