閑人耄語抄−13

No.13  ぼっとりが   匂いて 実り   豊かなり  
 〔自註〕 過ぎし日、白川郷を訪ねた。その時の風景を思いだしつつ、創った1句である。
格別の説明は、不要と思うが、現代は、拙速と掴銭とに邁進する風潮から、色好みは、いたって少ない。そこで、あえて、かつての産業風景を描くこととした。いささか説明調となることをご容赦願いたい。
ぼっとりは、自然の水の流れを利用した半永久運動機関のことである。
バッタリとも言う。蛇足だが、バッタリとなると、何となく産業の匂いが強く感じられるのは、筆者だけかも知れない。長いこと見て来た、布織りや布に至る前の製糸の工程が、浮ぶからであろう。
ここでの、ぼっとりは、米や麦を搗く(=つく)ことを専らとするものである。
ぼっとりは、おおむね棒状の板である。もちろん支点がある。板の一端には凹みが穿ってあり、その凹みで高い位置から流れ落ちる水を受ける。やがて、水の重みで下がる。下がると受け水が流れ出して、他の一端の重さで、また元の位置に戻る。他端は杵状になっていて、戻る力で臼の中の米や麦をたたいて、その殻(=から)を除去する装置だ。
ここまで説明すると、間が抜けることしきりだ。まず最初に、水車の原型か、水力機関のシーソーバージョンと言えば、良かったようだ。
もって終わり。
以下は蛇足だ。
最近、再生エネルギーとか、地球に優しいエネルギーなどと、さも新しい科学の課題のように紹介される。
つまるところ、要するに自然エネルギーの利用であって、昔に戻ることでしかないのだ。
人類は、いつの時代もそうだが、行過ぎたら、回帰するしかないのである。
さて、そろそろフィナーレだが、急に音楽に飛ぶ。
美しい水車小屋の娘なる西洋のクラッシック曲があったことを思い出す。
millなる単独辞体に、工場の意味があるかどうかはさておき、美しいのは、粉挽場の娘なのか、水車の形なのか、そのどちらなのか?
いずれでもあるようで、ないようで、、、、その昔、耳の方には全く注意力が働かず、どんなメロディーであったかはっきりしない。
なお、蛇足の滝太郎だが、匂いは、現代の用法の嗅覚ではなく、視覚の方ですよ。
それに、おまけのおまけの汽車ポッポだが、、、最初の方で、布や糸に触れたとおり、たなばた姫の頃は、ひたすら人力で機(=はた)を動かした。
次の時代には、水車の動力を使って、高速化と省力化を図った。川があって、高低差のある土地に、産業が立地した。おおむね扇状地に当る地域だ。比較的平坦な立地例?として、諏訪や岡谷がある、生糸全盛時代の中心地である。例外的に諏訪湖の流出口で、大型水車が設置されたのであった。
その後、内燃機関や電動モーターの多用が一般化するとともに、工場立地は、河川の上・中流域から下流・河口付近に移動した。これが現代である。
化石エネルギーを大量消費する生産方式や産業形態が、より後世に登場したが、技術史上も人類史上も、行過ぎであったと評価すべきであろう。
ここに、現代を行過ぎと想い、一介の金貸から無動力による泥掻き百姓に戻ろうとした唐変木がおると聞く、はてさて、その成果はどうであろうかのう?
農業は、おそらく人類最古の産業であろう。米搗きバッタのように、季節の循環に順応して単調な作業を淡々と積重ねてゆく。今日でも農業は、社会的分業が始まる以前の労働であり、そこが現代の先端型産業と根本的に異なる。すべての作業経過が見え、ブラックボックスとなるプロセスが無い。だから、効率を考えずに、徹底して安全な食材を、自らの消費のためだけに作ることが出来る。

2009年4月 岐阜県白川郷にて

2009年4月 岐阜県白川郷にて