閑人耄語抄−11ならびに12

 No.11  フジ未だ くりから峠 キリ咲いて
〔自註〕 この月の半ば、関東からの帰りに、列車の窓から見た風景である。たまたま眼を車外にやった時、倶利伽羅峠を通過していた。フジの花だろうと頭の中は言っているが、眼から来た情報と照合できなかったせいか、かすかな違和感があった。そこで、少し注意力を注いで、よく見ると。フジの花ではなく、フジに少し遅れて、これから盛りに向おうとするキリの花であった。と言っても、列車はかなりの速さである。老人の視力と,眼の奥の方にある司令塔の集中と持続の力は、もうたかが知れる程度に衰えた。動体視力など、生来備わってない。
倶利伽羅峠は、音数と字数が一致する、この国の地名としては,圧倒的少数すなわち稀である。音(=おん)で覚えているから、さて書けるかと言うと、それはまた別の事で,遥かに遠いのだ。昔は書けたような記憶がある。と言うのは、その昔22歳の春だが、東京から最初の任地に向けて、峠越えをしたことがあった。一夜を動く夜行寝台列車の中で過ごし、早朝の不機嫌の中、山深い所を通るものだと思った。その後、任地に数年住み、この峠は何度となく通過した。その回数は、当に今の年齢を超えている。ある時は鉄道で、バスでマイカーで、通過する経路も時代とともに、おそらく、そしてまた上りと下りとでは、その都度異なる鉄路やアスファルトの上を通って来たような気がする。もう5年もすると、その経路が1組、更に追加されるらしい。北陸新幹線だ。そんなに急いでどこへ行くのか?行き先は,決っている。超借金体質国から極超借金大国へとである、と言う人がいる。現代に生きる国民の一人として、孫の世代に、借財絡みの不要不急資産を残すのだと思うと、暗澹たる無責任の感慨を覚える。現代に生きる市民として、選挙権の行使以外のより強力な方法で、財政施策に対し反意を示して来なかったし、近い将来サービスが始まれば、支出の許す範囲で,おそらく高速鉄道を利用することだろう。
さて、くりから峠だが、とうに70回以上も越えているが、一度も自らの足で通った事が無い。よって、以下に記す事は、残念かつ遺憾ながら、想像と他者体験の受売りでしかないとお断りする。音(=おん)が転倒して「くらがり」が「くりから」になったのであろう。『暗』と文字表記する峠は、大坂と奈良の間にあると言う。同じ名の峠や山や川が、あちこちに数多くあるのは、しごく当然のことだ。北陸を代表する山「はくさん」は、ペクサン・キリマンジャロモンブランなどなど、、、
北陸の地は、また宗教中心でもある。北陸は、古くは『こし』の国であった。こしと言う音は、何に由来し,何をイメージさせて来たのか?未だに判然と決めかねるが、ここでのテーマは仏教・民間信仰に絞るとして、越後に流された親鸞そして佐渡には日蓮、自ら開創の地として越前を選んだ道元そして能登総持寺祖院を設けた定賢(=じょうけん)が浮ぶ。
倶利伽羅とは、竜王を指すのだそうだ。筆者にとって、龍は則ち水である。生命存続と栽培農業に必要不可欠だと判っているが、竜と来たらまず最初に想い浮ぶのは、洪水である。「りゅう」にサンズイを付けると,則ち滝である。滝は「とどろき」とも言う。川の流域で大音響を伴うものがそれであり、音がしない温和なものが瀞(=とろ)であろう。ある時に突如大音響を発するものを「てっぽう水」と呼んだそうだ。余談だが、先ほど鉄路も道路も何度か経路を変えたようだと書いたが、それは必ずしも時代の経過とは限らず、移動手段の変化であったり、水の力による地形の変化であり、ついでに便乗しようとする財政規律の緩慢だ。それらに応じて変って来たと考えられる。
識者によれば、倶利伽羅はまた不動明王だそうだ。何故か水のある所に立つ火に近い仏像だ。倶利伽羅峠に火のセットと来れば、次のテーマは牛と義仲である。申し訳なく思うが、この国の文化は定番踏襲つまり1パターンであるから、手短かに済ませる方針なので、しばし出鱈目話に耳を貸したまえ。
勝ったモノは、牛。負けたモノは、馬。
寿永貳年5月(1183)<暦法表示とAD変換は引用につき不明>の砺波山の戦いによる史的事実である。これは、日頃「うまかった」を連発する現代人の常識に明らかに反する。この点、「うしかった」と主張したであろう木曾義仲は、その昔、都では極めて評判が悪く〔朝日〕の名にふさわしく?短い時間のうちに失脚した。
元禄貳年7月(1689)=約500年後にこの地を高岡から金沢に越えた芭蕉は、「おくのほそ道」に地名を出すのみ<曾良随行日記も同様>だが、古戦場比定地には句碑があり、『よしなかの 寝ざめの山か 月かなし』とあるらしい。
物知り芭蕉は、故事を踏まえて鎮魂の詩を捧げたであろうが、悲劇に至る過程としての小事には踏込んでいない。小事たる局地戦での敗者は、平維盛(=たいらのこれもり)である。清盛の孫(=仮に勝手気侭に起算すれば孫は3代目に当る?)で正嫡だが、これが出るとこれは負けの武将である。既に東海道(治承四年=1180、富士川の戦い)方面で頼朝勢に屈しており、その3年後に再び北陸道方面でも敗退した。
さて、思わず長くなった、決着はこうである。辞書には、牛馬なる見出語はあるが、その逆は無いのだ。つまり、上に居て牛は下に居る馬をぎゅっと言わせたのである。これはうまく無いと思った馬だが、高さには勝てなかったようだ。とまあ、ここまで来たら、イヤミシェンシェだ。彼は車が斜面移動に弱いことをもって、車を止めて馬を活用すべきだと主張しているそうだが、、、、その馬がまた万能では無いらしい、急斜面では、人間以上に臆するのだそうだ。何でも人間が基準ではないとしてだが、人間が臆する所を牛は何とか行くらしい。これは、最近ある高地民から承った。筆者にとっては耳新しい知識だが、たしかに辞書に駿馬・世上に鈍牛とあるから、昔の人は知っていたのかも、、、

No.12  高やかに 仰ぎ見さする 桐の花
〔自註〕 桐の花は、日本の国中どこにでも見る。桐の木は、楽器から家具調度の素材として最適だが、現代ではいささか忘れられた存在であろうか?花には、花言葉の他に、家紋としての役割がある。特定の家系なり人物なりを示すから、時代により立場により、口にしたり使用したりを慎まないと、身を誤まる虞れがあったらしい。例えば、キク、アオイ、キリなどの花である。キリは高台寺、秀吉を思いださせる。朝日と呼ぶ時間軸も短いが、キリもまた短いのかもしれない。キリは天下の趨勢を占う存在、こちらは秋にそれも葉っぱの方だろうが、、、さはさりながら、それにつけても、100年に一度の大きな変事がどのような経過を辿る事であろうかをくらがり峠のキリは示してくれるだろうか?