閑人耄語抄−5乃至7

この日をもって、月が変わる。
旧暦で生活すべしとの提案もあるそうだが、太陽暦を採用して150年近く経つからか、五月の声を待つように、見渡す限り、田植えの準備が整う。
だが、そうでないとする説もまたある。
兼業農家は、祝日の集中するこの時期に済ませる事で、有給休暇のリザーブを図るのであり、また、それに応えられる早期栽培技術が進化したとか、更には、降雨に左右されずに水利調節ができる程度に感慨施設の整備が拡大したためらしい。
 No.5   早苗まつ   水田に映る   茜空
春の宵は、何にも代え難い宝物である。 
季節や夕刻は、世界共通のものであり、言わば全国どこにでもあるものであって、我が眼の前にのみあるのではない。
だが、しかし、さはさりながら、言葉で説得しがたいところの、素直に胸に染込む景観と。
そうでない生理的に調和しない漠然たる異和のものとがある事もまた事実である。
千年ほど昔の才女は、春は曙だと言ったそうだが、朝も夕も、ゆったりと移り変る。それが春なのであろう。
見渡す限り、水平で、しかも、水面が広い。
いにしえびとは、かが、かが、と形容したとして、現代では、その意味を共感できようはずが無い。

 No.6   山の端に   しあわせ淡く  春の宵
この地は、海あり、山あり、そして川がある。
この天賦の自然は、人智の及ぶ限りの外にあるが、花や雪や月のように、一期一会であって、再度出会うことが難しいと思う時には、その赴くままに従い、少しでも、その近くに居て、少しだけでも、長く身を置きたいものだ。
今日は、終日晴天であった。風は、時々厳しさを案ずることもあった。
山麓に居て、名のとおりの白い峰をあちらこちらで遠望した。
陽が西の空に消えて行くのを、惜しみつつ、家路に向う。
里近くに迫る外山は、もう裾の方から峰の方にと、少しづつ若緑色から後退して、早春色へと季節感を遡らせているが、その淡い色の違いは、夕闇の深まりにつれて、麓からは見分け出来なくなる、、、、
そうだ、それこそが、しあわせなのだ。
風が告げるものは、厳しい季節の着実な退去であり、食べるものを作る時季の確実な到来である。
そのことを、自らの眼でもって確かめる。それが、古来から、この国では、形がどうであれ、行われて来た。
山に雪があることは、食糧を自給できる地域であることの、証しである。
コメが基本食糧として不動の地位に座ってから、1000年は経過しただろうか?
コメを他地域に移出できる土地、つまり、米作地は雪が降り、白く積もる山が青く見える土地なのだ。
人のしあわせ感は、まずもって、そこから始まるのである。

 No.7   うす茜    川もに映す   春の宵
夕暮れの中を、家路に帰る。外山の切端を過ぎた辺りから、視界が開け、川幅が増し、遠くに家々の灯火が見え始める。
川は、高低差を失い、その幅を広げ、悠々たる大河の趣に変る。
家はもうすぐそこだが、大空からは、鮮やかな茜色は既に失われて、西の海に近い雲は、かすかに薄いアカネの色を留めているばかりだ。