+<菅の岼アンソロジー9>
9、雪の原の散歩は何のためにするのだろうか?
そういう問題提起にこそ無理があるような気がする。もとより、散歩は無計画・無目的に始めて突然にコースを変え、思い出したように突然帰路に向かう。もちろん毎日判で押したように出かける訳でもない。そんなものだ。それこそ良い。
 何か新しい発見があるかも知れないとの期待があって、冷たい外気をモノともせず,雪原に向かうのかも知れない。
もし、透明人間がいて行動を傍観していたら、きっと笑わずにクレイジーな奴と思うことだろう。昇りは結構キツいし、雪原を漕ぐ山歩きは、酸素が薄い中での雪中ラッセルだから、意外にもあの寒さで汗びっしょりになるのだ。なんとも滑稽なことをするものではある。
 まあ構えた物言いをすると、人生の一部とはその程度なのかも、、、と思う。
登山家に発した問いと、その答のように有名なものもある。それから着想として的外れかも知れないが、人はパンのみに生きるに非ず、の言葉がよぎった。これはあまりにも、宗教的な匂いが強すぎて鼻につく。
 ホームレスに親近感を禁じ得ない者の一人として、パンにあくせくする、これもまた人の一生だ。そう言いたい気がする。
 雪の原には、先住者の足跡がある。彼らのほうが早起きで勤勉だ。晴れて風の弱い日だけ選んで出かける、そんなずぼらはしないようだ。残された足跡を見て、その姿をいろいろ考える。実物をほとんど見たことが無いし、仮に見たとしても、どれほどその種類を正確に指摘できるだろうか?
 足跡別の数は、どう欲張っても片手の指に余る程度のものでしかない。恐いもの見たさであるが、幸いにも一度も遭遇していない?
 雪の中の足跡は、次にドカンと大雪が来るまで、1週間や10日はぼんやりでも残る。時に足跡を辿ることがある。なんと、突然に雪上からこつ然と消えてしまうものがある。
 足跡の形が、ヒトデのようだと、翼のあるものだとなる。だが、べた足のものだと、辿った足跡の最後とおぼしきそれの向こうに木が立っている、そこでしばらく考えて、ジャンプしてるからリスと断定する。こいつは、陸上を走る時は、相当早足のようだ。それとも雪に足を取られて潜ったら命取りとばかりに努めて快速走行しているのかも?
 根子岳の山裾をぐるりと周回する道がある。我が散歩コースにクロスする辺りは、概ね標高1,600くらいの高度を維持してトラヴァースしている。人ひとりがやっと歩ける幅だが、木も草も無い連続だから、雪道でもすぐにそれと判る。野生動物も歩きやすいと見えて足跡が割と多い。この大きい足跡は、ニホンカモシカと言うことにしておこう。ヒズメがある大型獣で、人間に危害を与えないのはこれくらいだろうと、まあ相当に楽観に過ぎる当てを着けているのだ。
思い出せば,その昔、麓の集落のはずれで目撃したことがある。その時は、イノシシではないかと思い、かなり進退を案じた。後日話題にして一笑に付されたが、もののけ姫から得た知識ではイノシシは危なく,カノシシは危なくないのだ。
 この周回道は、大笹街道と言う。江戸の中頃から明治の頃にかけて長野県の生糸商人が群馬県に越えた道の痕跡である。
 大笹とは、群馬県吾妻郡嬬恋村にある街道沿いの集落の名である。その先は渋川・高崎に繋がる。このルート沿いに鉄道が敷設されることは無かったが、自動車時代になって再度その価値が見直されたように思う。戦国から幕末まで名を馳せた真田氏は終始信州北東部に所領を維持したが、勃興期には沼田の地にも支配地があったので,県境鳥居峠を越えて大笹に通ずる往還の価値は高かったはずである。
 我が散歩道とクロスするのは、その街道の一部で鳥居峠から分岐し根子岳の裾を周回して須坂市に向かう徒歩ルートの名残である。須坂には往時の隆盛を偲ばせる豪壮な商家や繭蔵が現存し、今は蔵の町を標榜している。
 因にこのメイン・ロードは、ニッポン・ロマンチック街道の一画でもあり、徒歩によるシルク・ロードのうちの一つである。
 この道にあって思うことは、徒歩で旅行する時代の苦労だ。辿ってみて、この時代の道採りは、最短絡を第一にしつつ高度維持に努めたことがよく判る。荷を携えての上り下りのあるコース取りは極力回避されたのであろう。
 だが、この天気予報や気象観測衛星が無かった時代にも、想定外の天候激変や例年になく早く来る豪雪があったのだろう。道沿いに点々と置かれた石像は、不慮の死を迎えた人の無念を弔うため、明くる春に遺族が担いで登り、祀ったことを物語る。
 その一生もまた、どこにもある人生の一場面であっただろう。
雪深い高原を歩きながら辛いと感じたか、それとも清々しいと喜んだか、その時々に去来するものがあったことだろう。