+<菅の岼アンソロジー6>
6、玄関のすぐ前に白樺の木がある。通路の舗石が二階くらいの高さなので、眼の高さくらいと誤解して親しみを感じているのだった。
 この木の枝は実にいろいろのことを語るんですよ、今日は
寒い朝の白樺の枝は白い。太いの細いのとさまざまだが、白樺の幹はおおむね白く、明らかに他の木と区別できる。年中目だつので、この避暑地にもたくさんある。観賞専用の植栽にされるくらい人気のある樹木である。「北国の春」の冒頭唄いだしにありましたね、、、寒い荒地のシンボルツリーでもある。
 観賞専用とは,実はそれ以外に用途が無いと言うこと。でも、唯一の例外を数年前見た。
松本のクラフト・フェアで見た特製の椅子。尻を支える部位がイグサで編んであって、構造材が珍しく白樺でした。白樺はほとんど無コストで入手できるが、切出した直後に樹液対策をしないと家具として使えないとか、、、樹液処理が独自のノーハウらしく詳しく説明をしなかった。
 目の前の白樺は、もっとも細い先端の小枝まで真っ白い。その細さは爪楊枝くらいだから、その細さまで白いなんて、、、
 妙だよねえ、石膏で作ったみたいで、あり得ない自然界の不自然なものを見るものだ、、、
でも、何日も続けてそれを見続け,何度も観察するうちに、だんだん判って来た。
 これは雪ではない。どこに立つ木でもこうなる訳ではない。そのようなことから、きっとこれが霧氷なのではないかと思った。
 新雪の降らなかった日でも、朝早くだったらこうなる。どうも川沿いの斜面に沿って立つ木にしか見られないようだ。
枝の大小に関係なく、しかも枝の上側も下側も一様に差がなく白いものが隙間無くへばりついている。
 雪だったら、爪楊枝くらいの細さの枝には着かないし、枝の上側だけが白い、下から見上げる枝は木の肌のままの色だ。下から上に重力に逆らって降る雪は、おそらくなかろう。
 経過を観察したものではないが、霧氷は次のように形成されると思いたい。
 家の前を小さい小川が流れている。東の方が高く西に下っている。家は根子岳の中腹にある。小川の名は知らないが、要するに信濃川の支流の一つである。信濃川とは、あの我が国で最も河川長が長い大河のことだが、長野県境から上流は千曲川と名を変えるから、小川が注ぐポイントつまり合流点では千曲川と言うべきだ。
でも最大流域面積を持つ最大河川の利根川は県域が変っても名称を変えないのに比べ、河口の所で他国の旧国名を名乗らせる新潟市民の奥ゆかしさと2つの名称を持つくらいスケールの悠大なこの河川に格別の敬意を表したい。
 麓の暖かい空気が山頂を目指して休むこと無く登ってくる。この小川に沿って年中昼となく夜となくそして音も無く。千曲川との分岐点からでも水平距離で50キロ標高差で1,000メートルもあろうか?
気温が急に低下する所に霧が出る。大気が寒さに耐えられず,抱いていた水蒸気を手放す、それが霧であろう。霧の粒は眼に見えない。ごく寒い夜に車で帰ってくるとヘッドライトの中でダイヤモンドダストが踊っている。あれが冬の霧の姿だ。
我家の前は、春であれ夏であれ一日のうちに何度も霧が湧いたり、流れたりする。晴れなのか曇りなのか霧の中ではよく外の天候が判らない。
 ラジオの天気概況で聞く、天気不明とは、このことだろう。
まったくもって、霧の中では何事もおぼつかないことだ。五里霧中とは、よく言ったものだ。いつ晴れるか?それとも晴れないのか?霧に腕押し答えなし、、、、
 霧氷の美しさは、言葉で描くことは難しい。生命のはかなさをもって美女を讃える、これは霧氷にも当てはまる。
霧が晴れて太陽の光が照り始める、ハラハラと吹く風に誘われて、思い思いの時に空を舞いだす。青空と木々の梢を背景にして、天女の忘れ物のリボンを思わせる風情でゆらゆらと、、、、