*[カイゾク研究]+第6稿(実は第7稿です)

 長野県は、ほぼ中央の東に真田町がある。今年の3月6日に隣接町村と合併、上田市編入百名山のうち30は、長野県にあるそうだが、四阿山(=あずまやさん)は、群馬県との境にそびえる浅間山群の一をなす百名山で市内にある。サナダムシとサナダヒモは関係ないと思うが、六文銭の馬印で知られる真田氏と真田十勇士はゆかりの地となる。もちろん、カイゾクとは関係がないとほぼ言える。と言いながら、筆者の病気で、すぐひっくり返るようなことを2・3披瀝する。第1は西に向かうと安曇野市がある。アズミと呼ばれるこの古代名族は、食料調達・調理を専門の職として朝廷に仕えていた。他方長野県の中で浅間山の見える所は、古代官牧があった土地であるが、都への運搬手段として海路・陸路双方の利用があったであろう。まあその程度のこと。第2は市内をほぼ東南から西北に千曲川が流れる。その西側に塩田の古戦場がある。真田氏は天文17(1548)年にこの地で武田軍の家臣として参戦したが、その相手は村上。これはカイゾクの姓である。第3は、かの有名な幸村(=真田信繁)の嫡男大助(=真田幸昌)が落城直前の大坂城で速水甲斐守とごく親しく交わっていたらしい。この者は、おそらくカイゾクであったろう。
 真田親子の活躍と真田十勇士の活躍は、ここでは全く取上げない。何を史実というか?どこからフィクションとするか?その境は決めがたい。天下に隠れもないNHK大河ドラマで「真田太平記」を放映した。コンセンサスとしては、これが主張者のヴォリュームを決める。放映内容に沿って多数説に立つのが最も身の安全である。テレビは何よりもストーリイが面白い。英語では歴史をヒストリイと言うから、綴りの中にストーリイが含まれている。歴史とはそんなものだろう。平家物語義経伝説も国民がマスとして参画して作り、聞き手として支持した民族共有の歴史である。要は丸呑みから全面否定まで、それは受け手が判断することである。保身のためにはそのフイクション割合に関する自己判断を他言しないことである。
 さて、真田親子には生存説が根強く残っている。ホンネとしては、筆者もそれになびきたい。速水甲斐守の手引きのもと、大坂城の真下の海に予て手配の軍船が戦火をかいくぐって、するすると近づくなり真田幸村・大助の親子を乗せて瀬戸内海へと無事に脱出。やがて、数年後に日本海のさして名高くもないかの港にさりげなく、、、そして、、、天命を全うする。
 秀頼主従は自刃したが、血の繋がらない与力衆まで道連れになる理由もなく、それに千姫も助かっていることだから、、、、、、状況証拠はそこまで
 戦術家として勇猛果敢、抜群の戦果をもつ人を大事にしたいと思う。これは庶民の反権力指向がもたらす歴史願望と言えよう。第1号が義経、第2号が真田親子としたい。願望の対象となる人物の資格・要件はこうである。途中経過は華々しいが、結末があわれである。史実はさておき、しかし、国民性はハッピイ・エンドでないと興行的に当らないのである。
 真相は判らない。しかし、事実は一つである。真田親子も速水甲斐守も終始一貫負け戦の側に加担した。よって、徳川が天下を取った時代には存在感を消すしかなかった。仮に生きて大坂夏の陣の戦場を逃れたとしても、国内では身分を隠して、出自・半生譚を語ること無く静かに余生を暮らし、消えたことであろう。
 わが速水甲斐守は、どうか?これもまた真相は全くの闇である。だが、現実の課題は、実に枝葉末節である。
 詠みはどうだったのか?ハヤミかそれともハヤミズか、、、、それが問題なのだ。前者であれば、大族である。全国にそのような発音をする地名は、多くある。九州には、郡の名すらある。これも平成の大合併やらで、町村が消えると、連れて郡の名も歴史的地名になって、鬼籍に入るかも知れないが、、、
人名に限れば、滋賀県湖東町が縁故地である。信長の妹で天下一の美女の誉れ高いお市の方が最初に嫁いだ浅井氏のお膝元の集落である。そこには、氏名を冠した寺が現存する。前の日銀総裁は、こちらの系統であろうか?
 さて、ハヤミズであったら、どうなるか?同じ滋賀県近江八幡市が縁故の地となろう。この地は、関白秀次の領地であった。この一族は、太閤記の中でも最も陰惨な最期を遂げさせられた一家と言えよう。琵琶湖に臨む地の中で最も眺望の効く丘がある。このような地形は、カイゾクに必要不可欠な「日和山」の要素を満たすに十分である。また、ここは近江商人の中でも有力な家系を生んだ土地としても知られる。
 なお、戦国期の直前、応仁の乱の頃に蓮如と親交があったカイゾクは、堅田衆と呼ばれたが、それとハヤミズ水軍との関係は今後の調査をもって論ずることとしたい。
 最後に滋賀県は海なし県である。琵琶湖にカイゾクでは、腑に落ちんと言う方のために。古代国名は近江(=おうみ)である。森の石松の出身地は遠州森町である。遠州とは遠江(=とおとおみ)が正式である。おうみとはあわうみの転訛音である。あわうみは漢字で書くと淡海である。塩辛くない海の意であろう。因に日本古代史に名の出てくる淡海三船(御船とも書く)は大友皇子の曾孫にあたる人物だが、勢多の戦で功があった故事からも琵琶湖水軍に近かったと推定してよかろう。ついでに都から遠い方の淡海は浜名湖のことだが、その後外海と通ったので、今は塩辛いと思う。一説には、アワは浪立つの意との論もある。
 家伝によれば、祖父の時代には商売をしていた。屋号は「ごうしゅうや」と言った。漢字を当てれば「江州」となる。江州は、近江国の別名であることは申すに及ばずである。更に祖父の祖父母は両貰いの養子だと言う。その代で近江人のDNAは切断してしまい、家名だけが繋がったそうだ。
 子供の頃、悪ガキの喧嘩と自慢の落しどころは、先祖が武士だったとすることであった。だが、我が家はそう言えなかった。根っからの近江商人だからであり、菩提寺浄土真宗の寺であった。徳川幕府が恐れたのは耶蘇教と一向一揆の輩である。だが明治になって、すべての民が姓字を許されることとなった。その時は迷うこと無く旧姓に復帰した。元々あったものを蔵の奥から取り出すように隠すことをやめにしたのであった。
 カイゾク研究は、本稿をもってとりあえず終航とします。とりあえずの意味は、時機が来ればフィールド・ワークを「再開する」であります。
 そう、ごうしゅうが豪州であったと、、、???
乞うご期待