*[カイゾク研究]+第7(=実は8)稿

 前稿は、5月17日付けであった。しかも、その文末においてこのテーマでの最後の稿である旨を宣言したのだが、にもかかわらず、本稿はその続きである。さて、長い休稿の理由だが、次第はこうである。フィールドワークに出発したため、しばらくの間、文明の利器であるネットワークの端末機器から遠ざかったのだった。
 さて、フィールドワークの成果を今回と次回に分けて紹介することとしたい。
 第1は、鳥海山の標高についてである。山形県は、遊佐町に住む海吹寿老から標高2,230メートルは、正しくないとのご指摘があった。筆者は俄に訂正も抗弁もしないことにしている。コンニャクは筆者の好物であり、蒟蒻問答は鶏の餌にならなくても結構いけると思うのだが、、、、
 筆者のタネ本は、昭和55年3月角川書店発行の「角川日本地名大辞典第5巻秋田県」の423ページである。結論らしきことを言えば、発行時期すなわちデータが約25年前だから、筆者に分が悪い。海吹寿老人(=この方は、筆者が40年以上ご指導を戴いている人物だが、斎藤茂吉門下の歌人であり、地域風土に根ざした合理的なスローライフを実践する文化人でもある)は、最近のデータに基づき2,236メートルであるとおっしゃる。より最新のデータにより高い評価を下すのが、敗戦後60年のこのクニにおける常識であるから、全く反論の余地はない。インターネット百科事典ウィキペディアなどで確認をすれば即決となろう。
 ところが、ここからが蒟蒻の信条発揮である。少し、お付合い願いたい。おそらくウィキペディアに記載が無いものとなろう。読者の皆さんは、足下の大地が動いていることはご存知であろう。そう答は地学で言うプレートテクトニクス理論のことだ。確かにそうだが、専門家は動力論を含めてプリュームテクトニクスと言う。その動きは、年平均で数ミリから数センチのオーダーでしかない。次に地震や火山活動や洪水などで大地のデータが変動する。足下の大地が動くことは、現代ではGPSによって迅速に計測されている。だが、そのような天変地異が、地球上のどこでも、いつでも容易に起こるものではない。それに対して筆者が述べる大地変動は、毎日のように地球上のどこでも起こる上下動のことである。その動く幅は、もちろん土地の位置・形状により大小あるが、最大50センチメートルにも達する。この地球の変形のことを地球潮汐と言う。その名の通り動かす力原動力は、太陽や月の引力である。海に満ち潮、引き潮があるように、大地も同じように伸縮を毎日周期的に行う。この変形は常動的なので、標高測量においてどのように扱われるか?気になるところではある。
 次に、鳥海山の帰属についてである。国土地理院の地図を見れば明らかではないか?国土地理院はクニの機関である。鳥海山に限れば、秋田県山形県との間で県境についての対立が無いから地図上の表示は明確である。しかし、さはさりながら県民感情は穏やかならざるものがある。話題を日本全体に広げると、感情問題どころか、県の間や町村間で訴訟になっているケースがある。訴訟事件数は一つや二つの少数ではない。そのような対立・異論のある場所には、国土地理院は、境界線を引いてない。
 また、当該事件の当事者である市町村や県の発行する面積データをそのまま用いて、その県の総面積や日本全土の総面積を累計するとクニの発行するそれと不一致になる。それは訴訟をするくらい立場が互いに異なるのだからそうならざるを得ない。しかもその訴訟たるやもう何十年も決着がついてない。事実とはそんなものである。だからこそ面白い。答は一つしか無いと思う人間が日本には多過ぎる。日本人はおおかたが単細胞病である。耳慣れない新病だが、意外に流行している。「葵の御紋が見えないか」の一発で、あっさりと簡潔に決着がつくのが好きな病気のことだ。別な言い方では、インロー宣言ミトイズムとも言う。即物的に事実に立脚して正当性を論ずること無く、ただただ速やかに単純に決着がつきさえすれば良いと言う姿勢のことだが、これは、今日ではこのクニの国民性とも言えるほど定着しており、近年の安定性において揺るぎが無い。月曜日夕方TV放映は6チャンネルの超人気番組において顕著に、その事例を検証することが出来る。何とも操縦されやすい民衆主義だ。
 さて、鳥海山はどうか?山頂の所有は、大物忌神社である。実は山体そのものが神体である。信仰の対象が山なのである。もちろん麓に神社に当たる建物があるにはある。二つあってどちらも飽海郡遊佐町内にある。両口宮制で、海岸の方が吹浦口宮、内陸の方が蕨が岡口宮である。この宮つまり賽銭を撒く建物を神社そのものと考えやすいが、これら建物は実は拝殿でしかない。蕨が岡の最高地点など神体を直接拝める場所に置かれるのが本来の姿だが、その後の信仰サイドの安易化によるアクセス重視と神社サイドの財政政策から、拝殿は限りなく低地にへばりつくようになった。
 では、これが筆者の結論か?なかなか。とかく結論を急ぎたがらない。答は一つしか無いと決めつけない。これが筆者の立場である。だが、おおかたの日本人は、特にエリ?トほどそうなのだが、明治維新と言う標語を示されたら、鵜呑みに信ずる。明治政府は新しいことのみを実行したものと頭から信じてしまう。国民性として実際に起こった歴史の具体的事実に自らの意思で踏み込もうとしない。古いものはすべからく悪であり、新しいものは何でも善であると安易に決めてかかる。中身において復古政策が結構目だつのだが、新旧こきまぜてタイトルは強引に維新にしてしまう、クニとミンとの間に序列と言う事実上の身分差を設けて議論を封じてしまう、議論するな! 村八分を畏れよ! タイトルイメージがすべてなのだ!!!!! 
 さて筆者の結論は、両論併記である。山形とするも秋田にするもそれぞれに理由があるのである。すんなり山形県域にあるとした歴史事実は下記のとおりである。だが、ただそれだけでしかない。評価に値するほどのものは無いのだ。
 まず時系列による事実だが、大物忌神は、現在の山形県飽海郡(=あくみぐん)遊佐町(=ゆざまち)に所在する。歴史での飽海郡は和名類聚抄の記述によれば飽海・由利・秋田など8郷から成る。飽海郡の文献上の初見は、承和7(AD840)年7月の続日本後記である。更に吉川弘文館国史大辞典の記述によれば、飽海郡の建郡時期を平安時代の初め頃と推定し、出羽郡から最上川以北を分割して成立したものと推定している。これに立って考えられることは、大和政権の勢力圏の拡大が南から北へと順次進行したことが判る。律令時代は地域の人口が律令の規定に達すると新しい郷を建て、新郷の累計数が令の規定に達するとまた新しい郡を建てると言う具合に進めた。つまり、南にある古い郡の中から分割して、その北に新しい郡を作っている。由利郡の文献上の初見は、建保元(AD1213)年5月の吾妻鏡である。ここでも、国史大辞典の記述は、飽海郡から鳥海山尾根を境として5郷を分割して平安時代末期頃建郡したとしている。飽海郡と由利郡とは、明治元(1868)年に分国されるまで同じ出羽国に属した。
 次に空間軸での考察だが、飽海郡と由利郡の関係は、周知のとおり鳥海山を間に挟んで南と北に接する位置関係にある。ここで面白いのは、明治元(1868)年の出羽国分国の際に、飽海郡が北部7郡とともに羽後国に属したことである。羽後国の多くは秋田県地域だが、ごく短い年数の間鳥海山頂を抱える飽海郡が秋田サイドグループに属したのである。律令制での命名法は、都に近い方に「前」または「上」を、遠い方に向かって「中」・「下」または「後」や「奥」を付けるものであった。その飽海郡が、廃藩置県の明治4(1871)年には酒田県に、同9(1876)年には山形県に配属されて現在に至っている。
 いささか長く、引用の多い考察となった。境界決定についての時間的経緯を抜粋紹介したが、今日の姿に至ったことに何らの合理的根拠は見当たらない。地理学上の妥当性もまた同様である。分水嶺を境界とするか河川の中心を境界とするか、いずれにしろ一長一短である。ただ、最近「ものがたりニホンシ」を教化書にしようとする「後追い合理化史観」の盛行が見られるが、この立場に立てば、明治の序列制文化が決めたことだから、ありがたい意味があるのだと?ならないとも限らない。
 要するに飽海と由利、山形と秋田は、時間軸でも空間軸でも親子または兄弟姉妹の関係にある。それだけのことでしかない。近い将来例えば道・州制などに移行した場合のことを考えれば、行政上の区分などは中間ラップでしかないことが判る。歴史事実へのアプローチもまた、現代と将来にどのように生かしたら、より望ましいかとの観点から迫るべきであろう。
 えてして陥りやすい郷党主義や民族主義は、イデオロギー時代の産物として20世紀に置き、21世紀には持ってゆかないようにしたいものである。