6歳から60歳の今日まで、学生であれ会社員であれ、分類コードに該当するものがあった。しかし4月1日以降は特に決まったものが無い。この事について何も感慨らしきものは無い。だが、官公署において申請する場合には(生ゴミ処理機を購入した者に補助する制度のこと)、職業欄という設欄があって、空欄にしておくと必ず指摘される。それに器用に答えるのが、行政府の求める期待される人間像なのであろうか?おそらく一般的日本人はそのような些事には、関心も疑問すらも感じないで、無難にかつスピーデイに対応するのであろう。日本人の一つの特徴に、主権者認識が乏しくひたすら被統治者であり続けるという指摘があるが、なるほどその通りだと思う。何もこれは戦前の大日本帝国憲法下での「臣民としての日本国民像」では無い。今日只今の選挙民日本人の客観的評価なのだ。結果において情報統制下にある北朝鮮人民と変わり無いと言えよう。
  私めは、申請書に「ホームレス」と書こうと何度か思ったが、招来する困難と徒労を思い、未だに一度も実施してない。近い将来、トライしてみたいものだ。それだけではない。役人に対して何を根拠に職業欄という設欄があるのかを質問してみたいと思っている。その顛末は、概ね予想できる。質問の発せられる意味/背景が理解できず、その役人は戸惑うであろう。当方の質問は、職業を問う事についての根拠法の有無をまたは政省令の条項を知りたいというのが主旨だ。紆余曲折の後に発せられるであろう想定上の回答は、おそらく「それは疑う余地の無い常識である」とするものだ。せいぜいで先例に言及する切れ者が居るかも?定義をしないで他人に何かを強いる事に何の疑問を持たないのが、おそらくはコノクニの優秀な役人であろう。そして役人が疑問を持たないのだから常識だというであろう。常識は官の側にあるというのが、明治以来の今日まで変化してない日本のガヴァナンスである。マッカーサー時代に超越的権威者がその上に載った事があるが、その一時期を除かなくても、一貫して常識を決める立場に市民は置かれた事はない。
 常識を決め、これを不動のものにする装置は、眼に見えるものでは無い。以下の言説は、それ故に容易に受容されがたいであろうが、定義もせずに不可視の社会事象を短い言葉で括る仕事を合法的に行う存在=それが装置なのだ。良く判らない事を常識と覚えこまされ、誰よりも早くテープレコーダーのように再生出来ることが、コノクニのエリート選抜の基本原理である。戦前は陸軍幼年学校から陸軍大学までというエリート独占装置があったらしい。戦後は、言葉の上では、民主化が標榜されているが、実質的な意味での装置は巧妙に隠蔽されている。あえて、その装置の一部を指摘すれば、教科書検定の機構とマス・メディアである。これらの組織の支配層は、特定のエリート独占装置大学校の出身者によって、排他的に独占されているに違いない。マス・メディアには、もちろんエリート/スクール以外の出身者も働いている。しかし、この人たちは、低俗/娯楽番組を担う事で、情報統制下にある北朝鮮人民と変わり無い操作されやすい国民を大量に造り出す役割を結果において果たしていると言えよう。 ここで、教科書検定が着目された理由/背景を少し触れる必要があろう。定義をせずに常識を決める事が、非公開のもとでしかも無抵抗に近い状況で実行される。速やかに成果を定着させるメカニズム/仕組み/機構の持つ隠然たる権威性とその怖いまでの影響力を有している。つまり、思想統制や思考規定と呼ぶべき「権力の基盤を形成する力」の根源は、教科書そのものにあると考えたい。学校設立の公私の別によらず、使う教科書に書いてあることが、すべての国民の子女にとって最初の常識=砂漠に撒く水のように若い疑う事の無い最初の知識=となるのではなかろうか?
 個別具体的に事例を述べれば、私は大学入試までは、いわく/明治維新日露戦争での大勝利/という言い方を迷う事無くしていた。しかし、今日現在において/明治は新政(=私の歴史観では新/旧に良い悪いの価値評価は含まれない)ではあっても旧制復古の要素がかなり多いと言い。/日露戦争は、個別戦場で戦術的に勝利した事実は否定しないが、政治/外交的に勝利とは言えない。負けて無いが勝ったとも言えない。と変更している。
 そろそろ稿を閉じたいと思う。私の学問において、歴史は主たるテーマではなく、もっと広く茫洋とした文化人類学と呼ぶべきものがテーマである。