もがみ川感走録第55  もちの話7

手前味噌だが、吾が著作たる川シリーズの中で この”最上川”は、基幹著作となりそうだ。
餅が好まれる事において、最上川流域を含めた東北地域は、特異なフィーバーを見せる最後の秘境になりつつある。
新庄のクジラ餅に始まった、体験的プチアンソロジーである「もちの話」の第7話だが。
今回も、最上川流域との関連性が当面・直接に証明できないので、番外編の続編としておく。
山形は芋煮会だが。そのイモ=サトイモの食感とモチの食感とは、歴史的に・食物学として近縁であると言えよう。
今回採上げるのは、餅を造るための道具のひとつである『甑(こしき)』についての雑考察であるとしておこう。
最上川の河口にある地域大都市=酒田市から始めよう。
もちろん、この街は、餅文化の一大中心だが。その発音であるサカタからして、対岸との繋がりの深さが偲ばれる。
ここで言う対岸とは、ユウラシア大陸だが。現在では沿海州と呼ばないと位置が特定できない。
古代その地に渤海国(ぼっかい)が存在した。
日本史では、ほぼ捨象され・忘却してしまった国である。698年高句麗国(こうくり)の亡命者=太祚栄が建国し、926年大陸中国北辺の遊牧民契丹の派遣軍によって滅亡した。
国として立っていた約220年超の間、彼の国から派遣された渤海来日使は、時の律令朝廷たる奈良・平城京〜京都・平安京の時代を通じて、延べ30回超も訪日している。
これは、官選史書続日本紀を以ても、詳細不明なので、上田雄著「渤海国」<2010刊行・講談社学術文庫>より孫引きした。
筆者が注目したのは、渤海来日使が船に乗って、冬期こそ荒れる日本海をその冬に渡航して、主に越から出羽の陸岸に漂着同然のやれ姿で到着したことである。
ここでは、2つの来日例を採上げる。
最初の来日使は、727年国王親書を携行し、24人から成る外交団だった。
蝦夷地である出羽圏内に上陸したため、うち16人が蝦夷により殺された。船を失ったものの残りの8人が窮地を脱して平城京に達し、無事に帰国を果した。
注目したいのは、第2回と第3回との間=796年に上陸した訪問団のことだ。なお、この訪問は、上記著作上では回数にカウントされていないのだが、念のため、原資料から引用しておこう。
 『渤海人と鉄利人<著者注=満州種族か>合せて一千百余人が天皇の徳化を慕って来た。出羽国に配して保護し、衣類や食糧を給し自由に還らせた。』とある・・・宇治谷孟著「続日本紀=現代語訳」<1995刊行・講談社学術文庫。中巻56頁より転載>より
因みに時の天皇は、大仏開眼で知られた聖武天皇
官選史書の中の月日記載のない巻末備忘的記事でしかなく、要領を得ないが、国境警備・外交が未確立の時代でもあり。
周辺大陸民は、この列島と間に横たわる地中海を自在に往復していたであろうし。来日団の一部はおそらくそのまま東北は日本海岸沿岸の地に定住したことであろう。
要するに、このシマグニを大海に孤立弧存するゾーンであるとか・その住人が大陸・半島との交流がない単独の人種民族と固定的に理解すべきではない。
さて、そろそろ本論に入ろう。
甑=こしきと詠む  文字の成立ちを示す
偏<ヘン>・・・・曽 <=そ音。意は湯気が立ち上り、炊器などが累層するサマ>
旁<ツクリ>・・・瓦 <音は、ガ・かわら。意は既に焼成した土器、反りのある屋根瓦>
言うまでもないが、甑は餅を造るための炊飯具のうちである。現代日本では、蒸篭(せいろう)と言う木製の蒸し器に代っており。甑そのものは、今日既に忘れられた器具と化した。
甑のミニチュア土器が、釜(かま)・竃(かまど=その高さは15〜20cmが多い)・鍋(なべ)とのセットで。近畿圏とその周辺に立地する古墳から副葬品として発掘される。
  ○ 6世紀半ば頃に築造された横穴式古墳群
  ○ 羨道から玄室に入ったすぐ右手の側壁に置かれる
  ○ 追葬が複数回でも、1セットのみ置かれた
  ○ 置き場所が、広域の古墳群を通じてほぼ共通する
  ○ 火を使った形跡は無い
考古出土物は、自らその用途を語らないので。発掘者が推定するしかないが、韓半島出自の渡来一世の故人およびその末裔が故郷を偲ぶ品として、遺族が副葬したものであろう。
一方。大陸中国の、河姆渡文化=5,000〜4,500BCの新石器時代杭州湾岸〜舟山列島=が、餅食年代と想定されるが、炊飯具の形式比較に及ぶ段階でないので踏込まない。
以上がミニチュア土器と筆者の出会い、その中に甑が存在した事の報告である。
出会い資料は、末尾に掲げる
カラー写真・発掘図版付であったが、未だ現物との対面を果してない。
きっとモチゴメを蒸すための熱い蒸気が通る孔が穿たれているであろう。
閑話休題
ここで憶い出すべきは、コメを調理するアジア文化圏の中で、餅を保持し続ける地域が退潮または縮小していることである。
その点吾が東北は、古墳時代との時・空軸的な重なりが乏しい特異な地圏域だが。律令初期の急激な人口拡大と冒頭で述べた韓半島からの渡来民団の定着を踏まえると、東北の地からこそ、似たような遺物が出土されるべきであると考えたい。
今日の餅文化退潮著しい列島民俗風景の中で、餅を地域振興の中心軸にデンと据えている秋田県仙北地域や中東北のヘソを標榜する岩手県一関市の事例は、遠く古代に繋がる由緒ある「生きた民俗」なのであろう。
      * * * 
〔 滋賀県立・安土城考古博物館の展示図録 〕とは
韓国<ルビ=からくに>より渡り来て
副題=古代国家の形成と渡来人
2001年春期特別展の展示図録。同年刊行