おもう川の記 No.45  阿武隈川の15

阿武隈川に因む人物・人脈を語るシリーズの第3テーマ。
三春藩主家の安倍・秋田氏を綴ってきたが、今日はその第4稿である。
列島は、ユーラシア大陸から分離した大陸性島嶼である。この大陸は地球最大の陸地で、その最も東の端にある島だから。その東はもう大洋あるのみだ。
四海を水に囲まれて孤立し、長い間。神に恵まれた者だけに許された安住の地=神州であった。
後代には思わざる事態が現実となった。
鋼鉄製の巨大戦闘艦や成層圏を飛翔する超大型軍用機が実現して、その地政学的シマグニのタコツボ天下の魅力は、消えた。
”極東”なる言わば、辺境・僻界を強調する被差別観に直結するローカル・イメージだけが、固定してしまった感がある。
しかし、地球儀を両手で抱えて、世界を俯瞰すると。そこには中心も・辺境の区別は見出せない。
陸と言わず・海と言わず、等しく平等な天地が広がるのみだ。
さて、安倍・秋田氏の系譜だが。遡ると安藤、安東の姓を使うこともあったが、徹底して武闘において戦勝に恵まれない家系であった。
唯一手柄話めいた武勇談が残るのは、秋田俊季<幕藩制第2代、三春初代藩主>のみである。18歳で参戦した大阪夏の陣<元和元・1615年。おそらく列島最後の本格的内戦と目される>において騎馬武者の首を持帰っている。
これを除けば、まず皆無。俊季の実父 実季に至っては、弱将イメージすら漂う。
長い系図を辿ると、敗戦累々である。
前稿で、津軽海峡の両岸を行きつ戻りつした史実に触れたが。その経緯をやや詳述するとこうである。
前九年後三年の戦の後、残るは十三湊を本拠とする2家のみであった。
 ○ 安東氏。後の湊家=安倍貞任に連なる家系、最盛期十三湊の奥にある安東浦に面する藤崎の地を占めた。後世秋田湊に進出したことをもって”湊家”と呼ばれた。
 ○ 安藤氏。後の下国家=貞任の弟たる安倍則任から出た家系、最盛期十三湊時代、十三湖は藤崎の対岸福島城に居を占めた。両家間抗争に敗れ、寛喜元・1229年津軽海峡の北岸=渡島下国に逃れた。
下国家が退去した後の十三湊を長いこと独占した湊家であったが、隣国南部守行・義政父子による応永18・1411以来の打続く攻勢に屈して、四散五裂したのが嘉吉3・1443年であった。
湊家の首魁は、渡島上国・勝山城に逃れた。その他の一族は、飽田・小鹿島(相川、脇基)・若狭国小浜に分散移住した。
飽田・小鹿島は、出羽国のうちで。後世秋田湊に進出し、定着するに至る布石の地と言える。
若狭国小浜だが、これは言わずもがな、京都の外港として日本海に面した港町である。
敦賀と並んで、日本海と京都を結ぶ陸・海連接の主要流通経路で。鎌倉初期以来”蝦夷管領”の職にあった安藤一族は、北海や東北日本の海産物を大消費地の京・大阪に運び込んだが。珍しい貴重品=乾物・干肴類を招来する「恵比寿の神」と受けとめられたことであろう。
筆者は、数年前。オバマ大統領との音重なりに引かれて、小浜市を訪れたことがある。
羽賀寺本堂に安倍姓の木造2体があった。その時は、ただ漠然と眺めただけ。格別の記憶もないが、今になって思うと・・・
十三湊を退散する直前の15世紀前半が、安倍・安藤氏の最盛期であったと考えられる。
小浜羽賀寺との交流が始まった時期は、はっきりしないが。関係が深まったのは、おそらくこの頃だ。
南部氏との武力抗争の調停をこの寺を通じて、京都皇室方面へ依頼したとする見方がある。
この辺に安倍・安藤氏の武家らしくない特異な性格と言うか?欧州地中海におけるフェニキアカルタゴ的海人族に通ずる商人属性の片鱗を見る事ができる。
時期の前後はあるが、両家揃って一時期、津軽海峡の北=渡島の地に逃れたが。時移って、それぞれ海峡の南に戻り。出羽国檜山・飽田の2地に居を占めた。やがて、下国家系は、秋田湊家に併合されて消えた。
安倍・安藤氏の長大な系図の中で、最も奇異なのは、初代「安日王」=列島における家祖である。
その「安日彦・あびひこ・王」は、長髄彦の兄にあたる人物である。
ところで、一昨日の2月11日は、建国記念日<戦前は紀元節>である。
2月11日を選定した理由だが、神武天皇が即位した日に因むとされる。戦前ならまだしも、昭和40年代の再制定時点となれば。史料批判のプロセスもなく非科学性・不見識の懸念なしとしない。
本筋に戻ろう。
神武東征の一度目を浪速入江で撃破・敗退させたのが、その長髄彦である。と日本書紀には書いてある。
この家祖の名は、江戸幕府に提出<寛永諸家系図伝・編纂史料のこと=前稿参照>した時、格別のことは無かったらしい。しかし、明治政変時においては、新政府側から早々に質問が発せられた。
その時、秋田家の家令は、いけしゃあしゃあと応えたとか?
天皇サンの先祖よりも、当家の先祖のほうが、先に来ておりました」
ただ、それだけのこと
その後の神武東征第2ラウンドで、長髄彦側は敗北し。北の未開地に退避した事であろう。
さて、日本書紀の記述だが、史料批判を経ても、とうてい史実と言いがたい。
神武天皇の実在性も疑わしく・東征事業もまた疑わしい。天皇称号それ自体、時期過早である。
その後、安日彦・長髄彦の兄弟が率いるこの一族の足取りはどうなったか?
ようとして判らない。
おそらく武闘に弱いカルタゴ商人系海岸民族の彼等は、いつの時代も平和の地=無人のフロンティアを探して移り住む生き方を繰返したことであろう。
これは筆者の勝手な夢想に過ぎないが、すべては長い歴史の闇に紛れるのである。