おもう川の記 No.24 阿賀野川と飯豊山

今日のテーマは、飯豊山(いいでさん)である。
百名山の1つであるが、かなり判らない・難しい山である。
この川シリーズで、この山系をどこで採上げるべきか?おおいに迷った。
ありきたりの事を当たり前に書くが、すべからく川の源流は山頂にある。だからこそ山のことをよく理解して、書き進める必要がある。
今日の飯豊山の節は、3月29日<その9>から始めた「阿賀野川・編」に含めることにした。
阿賀野川・編ももう15節ほど書いてきたから、そろそろ終盤である。
阿賀野川に流れ込む飯豊連峰由来の川は、河口近くから実川<合流地は新潟県内>、奥川<耶麻郡西会津町>。支流・上流である阿賀川福島県内>には、相川・濁川などが注ぐ。いずれも小河川であり、川の名を掲げるのみ。
さて、飯豊山だが、正しくは飯豊連峰または飯豊山地と呼ぶべきで、単独峰でない褶曲山地だ。
後述するとおり、3県に跨がる高山群で。3方向から山容を眺める事ができるが、ラクダの瘤ほどのメリハリも無く。脈列分散が多く・実に愛想の乏しい山体である。
でも、この山並みを遠望して絶賛した人がいた。
レルヒである。
日本でのアルペン・スキーの発祥に関わりのある人物だが、1911年5月下旬会津地域を訪れた際、磐越県境(津川〜野沢)付近から飯豊連峰を眺めている。
T.レルヒ(1869〜1945 オーストリア・ハンガリー帝国陸軍軍人)は、軍事視察を任務とする交換将校として1910 〜1912の間来日し、主に上越市旭川市に滞在した。
上越市の金谷山にある日本スキー発祥記念館は、一本杖スキーを伝えた彼の生涯と日本におけるスキー産業・文化の全貌を網羅して展示する希有な施設である。
彼は現在はスロヴァキアとなった小都市の軍人家庭に生まれ・ウイーン陸軍士官学校を卒業したが、生粋の軍人らしい・几帳面な行動日記を残した。
そこからいささか脱線だが、なんで?その頃彼が?来日したか?を想像たくましくえぐり出すとこうなる。
彼が来日した時期は、日露戦争と第1次世界大戦との間である。
東の日本と西のオーストリーは、2国で陸軍大国ロシア帝国を挟む地理的位置関係にある。
オーストリー陸軍は、日露戦争においてロシア陸軍から戦術的勝利を得た日本陸軍に対し大きな関心を持ち始め・何か有益なヒントを得たいと画策していたかもしれない。
スキーをする軍人の招聘は、1902年1月に青森県八甲田山中で起った第8師団歩兵第5連隊の雪中行軍遭難事件<行軍訓練参加者210名中199人が犠牲死>との関連で検討されるべきである。季節・地形・気象の条件に関わらず行動の自由を得たいと願うのが軍隊本来の姿勢であるから、スキー先進地から技術導入を図ったと考えるべきである。
さて、脱線の最後は、彼が何故会津へ向かったのか?を探ることだが、
会津旅行の目的は、どうも純粋に私的な関心であったようだ。
磐梯山登山である。多数の死者を出した1888年の大噴火は、おそらく世界規模のニュウスとして報道され、若い頃の彼の耳にも達していたことであろう。
この7月、同地で。飯豊連峰の遠望を、筆者も追認したいと考えた。
雲に遮られたか?果たせなかった。季節が相応しくなかったようだ。
本題に戻ろう。
そもそもこのシリーズは、最上川とその最も上流に位置する都市=米澤を踏まえている。
最初は漠然と最上川を追いかけていた。
追いかけの途中。内陸にある米澤は、川に恵まれない奥地であることに気がついた。
そしてテーマが徐々に具体化した、江戸時代の米澤藩が置かれた立場を知りたい。
参勤交代制度が造り出した全国一体活動圏の1部分として、米澤の地はどう機能したか?を探りたい。
少し解明できた。米澤が流通手段として利用した川は、筆者が知る限り4つだ。
既に採上げた編の「荒川」、本編である「阿賀野川」、残るは阿武隈川最上川である。
4つの川に頼る米沢の多様さが、似たような内陸・奥地でも阿賀川1川で足る会津若松との根本的違いである。
一見 相似のようで、実は異なる米沢と会津若松。この2都市を対比をすることが、廻りくどいようで、実は手っ取り早く成果に迫れる要諦に思えた。
押えておくべき事は、まだある。
現代に生きる我々は、現代の常識に毒されている。しかし、その常識は常識であるが故に、「毒されていること」に気づかない事が多い。
現代の常識に、開国=貿易立国。海に面した港。港のある・大人口が居住する都市。ウオーターフロントこそが発展<正しくは進化だが>の方策とする思い込みがある。
次なる現代の常識は都市認識である。
都市の形成を河川との立地でもって簡略に展望するとしよう。日本に限ればだが、河口・中流域・上流域の3つに区分した。
飯豊連峰が跨がる福島・山形・新潟の3県にある主要都市の成立ちを各個に見てみよう。
第1は、河口域に立地する都市である。
平・相馬、酒田、村上・新潟・柏崎・上越の7市がある。因みに新潟市が3県中唯一の県庁所在地。
当然に海に面している。
海に面しながらこのグループには含めない例に鶴岡市がある。近年の合併により海面域となったに過ぎず・本来が中流域=内陸の街区である。仙台市秋田市も同じである。
第2は、河川中流域に形成された都市である。
白河・二本松・喜多方・福島、山形・新庄・鶴岡、長岡・十日町の9市。福島と山形が県庁所在地。
最後の第3が、河川上流域=最奥の内陸都市
会津若松市米沢市がここに属する。
この2つの街は、それぞれ会津地域と置賜地域における中核都市である。ここを何度か往き来して・互いに親密な関係にあると感じた。
しかし、2つの地域には自然障壁が跨がる。延長約30km超の高山列から成る県境だ。
奥羽山脈タテ列と出羽山地越後山脈タテ列との間を東西(=ヨコ列高地)に結ぶように形成された飯豊連峰と吾妻連峰とを繋ぐ高山列群である。
両地域の間には、自然障壁を超えて密接とも言うべきコンタクトが認められる。
では、奥内陸地域の生活は、国の指針たる貿易立国の下ではどうだろうか?
仮に生活物資が、海外供給に依存するとすれば。沿海地域から遠い分、流通コスト負担がへヴィーとなる。具体的には、ガソリンなど石油系エネルギー&レアメタルなどだ。
似たものに”ブランド牛肉”がある。各地の地域名を冠した”〇〇牛”ブームだが、トウモロコシなど輸入飼料への依存率が高ければ。ガソリンと同じコスト環境で・自給率もまた最悪に近い。
国民生活の基礎的防衛を考慮しない貿易立国・開国施策が、過去140年継続されて来た。
将来いつまで保てるだろうか?昨今の輸出不振と外貨不足を考慮すると、不安多いにある。
しかし内奥の生活は、自給自足度も高いとふつうに考えられるから。国策に対する抵抗力は、いつでも強いと言えよう。
昨今の気候変動=人によって温暖化現象=による海面上昇がもたらす水没懸念とは、まったく無縁な安全地域でもある。
飯豊山の本題から逸れたまま、紙数が尽きようとしている。
まず「いいで」なる名前の由来がよく判らない。
俗語的に解すれば、良いの意。それも感嘆に近い口語表現か?関西弁的強調表現か?
次に聞き間違い・書き違いが起きやすい「いえで・えいで・ええで」の音を以て、アイヌ語との重なりを検討した。納得すべき成果はなかった。
「いいで」の音が文字化されて「飯豊」となる背景、これがまた全く理解困難だ。
去る7月 筆者はこの山に登る2人の友人をサポートするためマイカーを提供した。
筆者自身は、登山に必要な体・技・財の3力を備えないので。連峰の周囲3県を走り回るに終始した。
アタック班は、切合小屋2泊する縦走3日の計画であったが。想定外の悪天候から、最高峰である大日岳(標高2128m)への登頂を断念したと言う。かくも登山困難で判りにくい山である。
この連峰の南端に三国岳(標高1644m)なる国境いに相応しい名を持つ山があるが、実際の県境は飯豊本山(標高2105m)だと文献に書いてある。しかも明治の県界を巡るゴタゴタで、本山に祀られる飯豊神社への参詣路に当る狭い尾根道=長さ約3.5kmのみが福島県域なのだそうだ。変形県境だ。
飯豊信仰は、福島県下一円と・置賜地域・新潟県の阿賀北穀倉地帯に見られる。
型どおり水稲耕作の灌漑水源信仰と豊作祈念である。特筆すべきは、会津置賜に見られる通過儀礼である。古くから15歳までに登頂を終らせるべきとする成人式慣行があったとされる。
山岳信仰と言えば、修験が定番だが。飯豊では江戸中期までに衰退したらしい。かつては豊富に産出した鉱石類が、この頃までに枯れたこととおそらく関連するであろう。
そのことと造山システムとの関係は不明だが、非火山に属する褶曲山脈であり。山体は主に花崗岩から成るとのことである。
最後に「はやま信仰」との関連を考える。
平凡社歴地体系・福島版の総論31頁〔民間信仰]に纏まった記述があり、福島・山形と宮城・岩手のいわゆる東北南部に「はやま」なる音の低山が散見されると言う。
この信仰と飯豊信仰・草木慰霊塔信仰・出羽三山信仰とが、どう重なるか?
それが、筆者の当面の関心だが。関係諸方面の努力による実態の解明が進むよう望みたい。

日本百名山 (新潮文庫)

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