か麗のしま No.1

今日から新しいシリーズを書く
題して「か麗のしま」とする
この数年、否ありていに言えば。生来からの探求課題は、日本文化である。
その探索考究の骨組に筆者なりの拘りがある。
最も回避したいもの、それはテーマから容易に導きだされやすい短絡ナショナリズムと混同されないである。
日本文化についてより深い理解を得るための行動は、なるべく労少なく・効率よくだが。
この2か条は、あまりに当たり前だが。
誤解を招きやすい言い方なので、ことわりを述べておきたい。
他人の体験をもって吾が事のように語る愚は、避けたいと思っている。
それも何故そうなのかを述べる必要は無いと考えるが、行きがかりから少し述べる。
他人の体験とは、文献情報であり・時に取材の成果だが。その双方ともに、幾つかの壁がある。
まず外国語の壁、次いで邦語への翻訳の壁、3番目に話者や翻訳者の属性による壁である。
多々あるが、3つくらいに留めておく。
3番目の壁は、国なり・地域なりに捕われる属性的限界の壁だから当然吾が身にも備わるものだ。
それに気がつくことが難しいし、仮に気がついても現実に脱け出すことは更に難しい。
いわば、先入観念とか・国民性とか・イデオロギー色の濃い初等教育がもたらす偏見・時代遅れの科学観などに立脚する諸々の偏りに引きずられていない人間はいないから・・・・
そもそも伝聞情報は経験知でしかない。
自ら体験する。それが最もリーズナブルである。
口で言うほどに簡単ではない。でもしかし、かなり無駄かつ非効率であっても、そこに往き・立って、その場の空気を味わい・周囲の景観を、ざっとでも吾が眼で見ておく必要が、最低1度はある。
以上長々と述べたが、即物かつ具体を踏まえてから・しばらく考える。
そして頭に浮かぶ事を少しづつ口に出し・文にする。
そのプロセスを踏む事が、吾がフィールドワークの作法だと。まあ勝手に考えている。
前置のような話は、まだ続く
列島に中心はない=地形・地理を考える場合は、原則として地図によらず地球儀をもって行う
この文章の「=」の前と後ろは、実は同じことの単なる”言い換え”である。
前置の半ばで、属性的限界・イデオロギー色・偏見・時代遅れの科学観などと、耳障りなくどい言い回しをした背景は、この事である。
さて、脱/地図 → 入/地球儀を主張し実践する事の意味だが、地球儀のほうが模式として現実の地理体験に近い。
このことに関して、おそらく反論は無いであろう。
しかるに現実はそうなってない。
日本に数多くある中堅以上の都市地名に、〇〇中央とか中央区など妙なものがある。
もう一度繰返す。地球儀を見る限り、中心も辺境も存在しないし・論証する事もまた困難である。
更に続ける。
世界には、中東とか・極東とか、表とか裏とかなど非科学な地域呼称・地名がある。
これもまたイデオロギー色・偏見・時代遅れの科学観の産物である。と筆者は言いたい。
以上がやや長過ぎる前置である。
さて、本題に入ろう。
過ぎた秋「か麗のしま」を訪問した。
琉球の少し先にある・そんな近場にある島、、、、
60半ば過ぎの・しかも初訪問とは!
何を今頃と。おおいに失笑を買っていることであろう
そのとおり、おおいに我が身の偏見と非科学性を恥じるばかりである。
帰国してから心に浮かぶこと
一言で表せば、「百聞は一見に如かず」であった。
不明・無知は、我が身から出た錆そのものであった。
その昔、中華民国なる、持って回ったような”名称”に捕われてしまっていた。
机上の知識だけで、思い込み・決め込み。それでもって自己の鼻先の向かう方向を決めて,平然かつ傲慢に生きてきた。
その若造の・食わず嫌いに近いアジア・太平洋の座標観は、少なくとも30年前に方向転換しておくべきであった。
過ぎた時間と我が身の失敗を語るだけの訪問記だが、反省に立ち・フィールドワークの原点に立ち返る必要に気がついた。
我が身から出た錆を以て瞑すべきである。
大袈裟に言えば、コペルニクス的転回を。吾が身に課さんとする”はじめのメモ”を書きはじめる。
下世話な言い方を借りれば、”アラセヴンティーの手習い”だが、だからこそのんびり始めることにしたい
今日はこれまでにします