にっかん考現学No.75 信使よも8

朝鮮通信使よもやま話では、通信使がどのような歴史経緯から始まったかを論ずる。
書きはじめは、本年9月からだが。その第1稿で5つのキィーワードを掲げ、各節のテーマを予め示す事とし、順次キィーワードに従い”倭冦”・「応永の外寇=本稿では『韓寇』と言う」と述べてきた。
さて、今日の第3節はいよいよ最後の節である。そのわけは5つのキィーワードのうち2つは人名であり、これまでの記述のなかに散りばめられているからである。
その人名2つも、ここまで書き進んできて振返ると。やや正確とは言いがたく、日・韓併せて都合4人であった。
  [権力トップ]
    日本側 1 室町幕府第3代征夷大将軍・・・・足利義満 
        2 同じく 第4代=義満の子・・・・足利義持
    半島側 3 李氏朝鮮 第3代 国王 ・・・・太宗
        4 同じく 第4代=太宗の子・・・・世宗  明君=大王称号を伴うが通例
この第3節で扱われるキィーワードは、「歳遣船と文引制』である。
このあまり耳おぼえの無いコトバは、日韓間の外交と貿易を長く規定した交易ルールを要約している。
現代の国際政治は、対等外交が常識であり・開国を当然の国策と考えている。しかし、これは極めて近代に形成された新しい秩序である。
当時の東アジア的国際慣行は、海禁を前提とする・外交と貿易を消極的かつ抑制的に扱うものであった。
そんな時代認識のなかで、対外封鎖を部分解除する新機軸を打出した世宗大王開明性は、特筆に値する明君ぶりである。
ここで本論に入る前に,昨日のつづきを述べる。
この節でも説明の必要から日・明関係に触れるが、あくまでも主題は日・韓の間を考えることだ。
さて、義満は権力者として北・南朝皇統の抗争・武家相互間の対立武闘・東アジア圏での対明・対李朝との外交も上手に切盛りした。
室町政権を通期俯瞰した場合、政治的に成功した将軍は唯一彼のみであった。
おそらく彼は想定外に早死にしたと自ら思っているだろうが、後世の時点で確定的に観望すると彼はベストのタイミングで急遽病死した。
自ら希望し主導した大寺院の建設工事の完成を見ずに逝去したが、このて即ち壮大寺院の成就は半永久的にありえないとする。それがいつの世もセカイの常識であり、スペインの世界遺産アントニ・ガウディの構想になるサグラダ・ファミリアのみの専管事項ではない。
相国寺整備プランの遂行が、将軍・義満の最期の手腕発揮場面となった。
一個人の内心を慮る事は、極めて難問題だが。老身・病体が、医事と仏寺に傾くのはごくフツウの当たり前である。
大寺院建設は、単に私的都合から生じた些細な事だが。彼の私事は公私混同を誰からも咎められないものであり、彼こそが実力者。元将軍にして現将軍の実父であった。
では、彼は大寺院建設のための費用をどうやって捻出したか?
この時代膨大な利益をもたらす事業は、まずもって貿易であった。
対岸貿易はごつい儲けを捻り出した。現代の貿易では想像すら及ばない程のボロ儲けであった。
その背景を型どおり、掲げる。
まず、国を越える事が難しかった。海の存在である。
次に船の建造と航海に関する技術の課題である。
3つ目(で終らせるが) 国境が不明で、しかも国外の状況が更に不明であった。
渡海のリスクは、当時も今も基本的に変ってはいない。暴風・台風・海賊の3つである。
前の2つ、つまり海況は、人為では如何ともしがたいが。倭冦を抑えて海の道を整える事は、貿易物資の持帰りを確実にするばかりか。
貿易相手国である明国・李朝から全面的な協力・支援が得られるなど、1石4鳥くらいのメリットがあった。
1石4鳥とは、大袈裟なモノ言いだが。あながち誇張でもない。海賊を抑えてはならないのである。何故ならコトワザにある、”カイゾクとハサミは使いよう”だ。
彼らを使うメリットは,たくさんある。
まず渡海手段である船を持っている。航海に関する技術も経験も抜群である。財物を彼らに委ね運搬させる=世人はこれを”泥棒に追い銭”と言う。出来れば避けたいが、避けようとするほどに彼らは奪いにくる。
ここからの展開は想像だ。
さて、彼らは奪った財物をどうするかを考えよう。彼らも人の子だから骨董趣味はさておき必ず食糧と交換する・または食糧獲得のために貨幣と交換する。
要約すると、奪ったものを何処に運べばカネになるかを彼らはよく知っているのである。さすれば、彼らを従わせる方法はある。
勘所を抑える=入り口と出る口とを縛り、離さないようにすることだ。
略奪させず・運搬事業に組込む事である。渡海運送は命がけだが、正業でもある。彼らに天職と思わせること=それが勘所=を、義満はそれをやり遂げたから。”倭冦”は、略奪稼業を一事棚上げして、正面業務の運送事業に回帰した。
”倭冦”の下火化ないし沈静化は、明国・李朝から全面的な協力・支援を引き出した=相手国として足利幕府の治める国と交易してよいと思わせる最大のメリットであった。
1404年 ついに義満の念願であった勘合貿易が始まった。
未だ今日の論稿の半ばですが、紙数が尽きたので。
今日はこれまでとします