にっかん考現学No.67 通信使の17

朝鮮通信使の現場を訪ねる実地踏査レポートシリーズ蒲刈・編の第5稿である。
蒲刈三之瀬・瀬戸であり、「御馳走一番館」と言う名の通信使資料館がそこにあり、そこの入場券は松濤園へのものであった。
1つの事に3つの切口、この場合これだけ抑えておけば十分だろう。3つの要素を整理しながら、この蒲刈編を閉じることとしたい。
まず蒲刈(かまがり)、これは言わば歴史的地名である。
朝鮮通信使の宿館が置かれたことから生じた地域名=”呼び名”であろう。
しかも通信使接待に係わる江戸幕府対馬宗家・広島浅野藩など、当時の権力者サイドの呼び名であったようだ。
歴史的地名とする背景はまた、一時的に存在した宿館<その建物は江戸期に限れば通算11回だが、供用の直前に建設され・通信使が帰路出立の直後に解体・撤去された。臨時的な施設>に由来する。
次は執筆のついでで、松濤園について簡略に述べる。
開館時は下蒲刈町が運営体であったが。合併により呉市所属となり、地方公共団体としての町は消えた。
残された施設の運営体=財団法人が松濤園を名乗った。
最後に三之瀬・瀬戸だが、これは海事上の地名である。
航海工学的にはこれもまた歴史的海域地名である。
海事史を振返ると、航海するために船をどう動かすか=航走エネルギーによる3分類がある。
  人が漕ぐ
  風をこなす
  動力で動く
そして、いつの時代もこの3つを組合せて、海上を航行する=都合4つである。
意外と思われるかもしれないが。現代の最先端を行く・或は近未来の船は、コンピュウタで帆を操作して風力を活用し・船内でLNGを燃やして電気を起こし船尾のモーターでスクリュウを回す。つまり推進力を複合的に組合せる時代に入りつつある。
脱線ついでに更に先の航行を述べると、日欧間の海上輸送は潜水して北極海を通過することになろう。
最近の地球温暖化?を受けて、北極海の氷はかつてないほど減少しており。これに便乗してか?砕氷船を組込んだ輸送船団による新しい航路を仕立てようとする動きがある。このロシアの画策は、直近の海事トピックスである。この航路のメリットは、既存ルート(日本から南に下りマラッカ〜スエズ〜時にジブラルタル経由で欧州に達する)よりも概ね3分の2の長さだから、所要日数と燃費代の節減にある。懸念されるデメリットは、秋〜春の多氷シーズンの運航不安定だが。その解消策が潜水航走であり、海上船との比較でも造波抵抗が水中ではキャンセルされるから。更なる燃費代の節減効果と懸案の通年航行が達成される、ダブルメリットがある。
もちろん潜水船の建設に係るイニシャルコストは高くならざるを得ないが、航路短縮によるランニングコスト・メリットをもって償還できる範囲に収まれば良いのだ。
そろそろ脱線から回帰したいが、最後に1つ。
執筆の必要から海事航走と造船についてざっとおさらいしたら、オセアニア&ハワイを見直すことになった。この辺はつまり太平洋だが、航海の歴史が最も古くかつ航海水準が高い海域=所謂名門が活躍する舞台であることが判った。
さて、本題の三之瀬・瀬戸に戻ろう。
上・下2つの蒲刈島に挟まれた地峡水路=海峡である瀬戸は、いつの時代も海の難所である。
瀬戸内海は、そもそも海峡が多い。多島海域と同じ意味である。
瀬戸内海 その難所の難所たる原因は、地理学的な要素だけではない。
難所たる最大の所以は、人的要素にある。
そこに住む海の民は、時に急変する。
私はそのことを朝鮮通信使の残した記録から知った。
時は応永の二十七年と言うから、ありていに言えば1420年。
所はもちろん蒲刈
分岐点と言うか?それとも結節点と言うか?まあ、どちらでも良いが。東瀬戸内の海族と西瀬戸内の海族とが相互に出くわす場所、そんな安全地帯?が当時の蒲刈だったらしい。
書いた人は、宋希景(ソンヒギヨン 1376〜1446。”景”は仮文字、本来の字は仮文字を旁とし偏に”王”を加えた字)。李氏朝鮮の官人、外交交渉のため日本に派遣され、残した記録を「老松堂日本行録」と言う。
老松堂とは彼の号。漢詩が多く、付足しのように当時の日本の風俗が覗ける紀行文である。
いつの時代も海外への出張は、想定以上の緊張を伴うが。当時の瀬戸内海航行は、昼夜を問わず襲い来る潮の干満と強い雨風と神出鬼没海賊の来襲の3つに気を使う辛気くさいものだったらしい。
いつもハラハラしながら寄港地に駆込み・そこからの出航タイミングに悩むことの繰返しだったようだ。
彼が採用した予防措置は、蒲刈現地情報によるものであった。東の海賊の制服を着た者が乗船する船を、西の海賊は襲わないことが多いとする噂であった。
地獄で仏ならぬ、地獄こそカネが効く?
いずれにしても、結果として彼は無事に帰国を果たした。
以下は文献からの受売り。乗船してくる制服着用者のことを”海賊衆”と呼び、所謂略奪を常とする海賊とは別の集団であるとする。この2つを区分されるべきとするのは、いささか腑に落ちない。
さては、”海賊衆”を海の領主層・武家の統治階層に当て込み・それ以外の漁撈民を被支配階層に嵌め込んだか?
時・空軸を超えて半島と列島人とが共有する儒教世界観の1つなのであろうか?
この点について、筆者は少しばかり理解が異なる。
軍国&君主制エスタブリッシュメンタル・ヒストリアン達がワン・パターンの法則=あらゆるモノごとを単一・単純化の中に放り込まないでは済まされないこと=に、違和感を覚えるほうなのだ。
また,筆者が使用する辞・語は、「海族」1つであって内部区分が無い。
海族とは、海生民族の短略表記であって。現代的に言えば、海の民である。
海で生きるには、潮のこと・魚を穫ること・船を造りそして対岸に往って還ることなど。明らかに陸の民・里の民・山の民と異なる生活作法が、身についていなければならない。
ただ、海の民と他の”陸・山・里”の民との構造的な差異は、自給自足の完成度の差である。海の暮らしは自給レベルが低い、他の民と交易により生活必需物資を入手し、やっと生きられる暮らしである。
海と里の生活資源の双方を備えた海生民族集団は存在しない。海の民は生きるために2つのゾーンを行き来するボーダー・ピープルだ。第1の界では表て顔を・第2の界ではもう1つの顔=海賊の顔を使い分ける器用者か?陸を行く足と海を渡る船との双方を持ち、両義・多重の交易界を往復した。
”陸・山・里の民達”は、そのボーダー性こそが納得困難であったし、海そのものは自然障壁=バリア・ウォールと考えている。他方海族は、行き来を妨げるバリアの内海&外洋の差はおそらく無いであろう。
単義・唯一界に生きられる”陸・山・里の民達”に、両義・多重性が理解・容認されたことはかつて一度もない。
そのことを理解してもらうために、舞台を一時的に地中海に移してみよう。かのヴェニスである。
彼らは本来的航海民だが、最初暮らしの本拠は陸であった。ある時ラグーン付近つまりすぐそこに見える海の中の島々に移り住んだ。ゲルマン民族の大移動を避け、渡海の技を持たない彼らと混じり合って住むことを避けた。
ヴェニスが今日只今ヴェニスである所以は、不便を忍んで?海の中に住まいを移したことにある。
欧州地中海と言う内海の中にヴェニスはある。
アジア地中海と言う外洋の中に対馬がある。
対馬は、アジアのヴェニスと考えたい。渡洋のスケールは,やや違うが。
バリアとしての”海に差は無い”と既に述べた。そして海の中だけでの独立自存はあり得ないとも書いた。
対馬は列島の一部だが、列島のように自立できる界ではない。交易の相手が絶対的に必要である。
僅かに韓半島の方が、日本本土に渡るよりも近い。
そこにこそ、朝鮮通信使の存立、必然性があった。
朝鮮通信使なくして、対馬の生存は無かった。
実地訪問シリーズはここで一旦終えて、次回から外交よもやま話・編を始めます。

海の日本史 (河出文庫)

海の日本史 (河出文庫)

老松堂日本行録―朝鮮使節の見た中世日本 (岩波文庫)

老松堂日本行録―朝鮮使節の見た中世日本 (岩波文庫)