にっかん考現学No.64 通信使の14

朝鮮通信使の現場を訪ねる旅のレポート上蒲刈・編の第2稿である。
下蒲刈島三之瀬にある通信使資料館=御馳走一番館を視察した。
この展示施設の運営は、松濤園なる財団法人となっているが。約20年ほど前に設立された当初は、地元地方公共団体が運営していた。
建物の外観は、江戸期の豪壮な木造民家風である。このことに格別の意味は無いが、誤解を招かないために一言触れておく必要がある。旧有川邸といい、明治中期頃に建てられた商家の造り、富山県は砺波方面から移築され、展示用の建物とされたものである。つまり、建物と朝鮮通信使との関係は特にない。
次に、建物の位置だが、東側が直接水路=海峡に面している。
前の庭園から南北に通り抜ける海峡面を望見することはできないが、対岸の上蒲刈島との間を通る目算200〜300m程度の狭い水路を扼する位置に立っている。
同じ三之瀬地区の敷地内に、復元・御番所と復元・御本陣がそれぞれ設けられており。いずれも江戸期における公共輸送に関連する公式海駅としての施設だが、前面の海峡が瀬戸内交通上の要衝であり、浅野藩蒲刈番所が置かれた。
本陣の機能は、西国大名が海路を利用して参勤交代した際の宿泊施設である。
番所の機能は、主として海上警備や海上流通の便益提供だが、曳き船・漕ぎ舟と船頭・水夫(かこ。加子とも書く)の両方を常備して水上輸送サービスに備える一方。高札場があり、弓矢・鉄砲・刺又(さすまた。暴漢を取抑える道具)などの警戒用具を配備していた。
朝鮮通信使を馳走<=現代の接待に当たる。衣・食・住の全般をカバー>する事は、番所の本来的機能に含まれない。
馳走役は、本藩(在・広島)から臨時に指命派遣された上層の家臣が担当し、サービス拠点たる宿館も臨時的に建設される事が多かったようである。
因みに「御馳走一番館」とした背景だが、朝鮮通信使が釜山を出帆してから釜山に帰港するまでのほぼ全行程に付添った対馬藩・宗家の家臣団の評価を踏まえて展示施設名に採用したものである。前述したとおり、馳走は料理を含むがサービス全般を意味した当時の用語であって、幕府から任命された公務であった。
さて、最後に当時の海上交通における三之瀬・海峡の持つ意味を筆者の独断と偏見でもって抑えておこう。
現代は、動力船による航行であるから、江戸時代までの風と帆に頼る航走とは、全く条件が異なる。
一言で言えば、三之瀬・海峡の持つ意味は、その当時極めて重要であったが、現代ではその意味は失われたと言うべきである。
まず帆走航海時代に夜の航行はあり得なかった。
次に、瀬戸内海のような多島海は、座礁転覆の懸念があったので一層夜間航走は皆無であったろう。
更に風次第であるから定時運行なる現代の常識もまた当時は問題外であった。
ここで要約的に抑えておきたい事は、黒船来航以後の航路とそれ以前の航路とは全く別となってしまっている単純な事実である。
前々稿で採上げた鞆の浦・訪問編に書いたが、江戸期における福山藩の干拓事業を想いだしてもらいたい。
幕藩体制下、列島に総数約300超あったと言われる各藩は、独立採算によって藩財政を維持しながら、表高石数によって幕府から指示された軍役を負担する家臣団を雇用し続ける義務を負っていた。
福山藩の場合は、城下を流れる芦田川を改修して陸地を増やし・耕作地を拡張し、特産物を育て・藩外に売ることで財政の極大化を図った。
この河川改修・干拓事業は、古代以来の瀬戸内航路を根本から変えてしまった。
明治以降も干拓事業。今日的表現でのウオーターフロント開発は、盛んに行われた。特に瀬戸内海沿は、遠浅の条件を備える海浜を持っているので、継続的に実施され、重化学工業を核とした産業都市化が、進行した。その結果、朝鮮通信使が使った航路や北前船などが利用した航路、いわゆる帆船時代の航路の多くは失われてしまっている。
先に三之瀬・海峡の持つ現代的意味は既に失われたと書いたのは、その事である。
現代の航路、特に京阪神地区と九州・韓半島とを結ぶ大型船は、西から東に向かって斎灘(いつきなだ)〜来島海峡(くるしまかいきょう)〜燧灘(ひうちなだ)を航行する。
それに対して、朝鮮通信使が乗船した李朝製帆船団は、韓半島から外海の対馬海峡を越えて直接に瀬戸内に乗入れたものの。日本有数の急潮水路である来島海峡を避けて、安芸灘諸島の北側海域=安芸灘を航走した。
つまり、朝鮮通信使船が通るべく指定された航路は、南の斎灘から北の安芸灘に向けて、安芸灘諸島5島のうち最も西端に位置する下蒲刈島とその東に隣り合う上蒲刈島との間の水路=三之瀬であった。
現代の三之瀬・海峡には、蒲刈大橋が渡されている。
1979年10月に開通した高層・豪快な歩道付の2車線自動車道、海面から23mの高さを橋桁が通るように設計されている。
このことからも当該水路の必要性は、近未来を含めて少しも失われていないことが伺える。
今日はこれまでとします