泉流No.107 ついの旅

* 吾が旅も  始める頃か  しぐれ降る
〔駄足] 過ぎた年末・年始は、年次研究のレポートを未だ実施していない。
年次レポートとは、知る人だけが知るささやかな吾が学業の中間纏め報告のようなものだが。この4半期ほど続けて来た事もあり、約1ヵ月遅れだが、本日形ばかりにその務めを果たしたい。
現在進行中の「にっかん考現学」が、その一画だが。
韓国語の実用レベルでの習得は、日暮れて道遥かに通しの感が強い。
古代韓国語と古代日本語としての”やまとコトバ”の間に、何らかの重なりを見つけたいと想い、先行研究のありようを探ってきたが。これほどに互いの距離感が遠い2国関係も珍しいと想った。
我流の観相をあえて述べれば、どっちもどっちである。
まず、列島サイドの学問考究上の閉鎖性である。
先般ある本を読んでいたら、こんな表現に行き当たった。   抜き書きする
    アイヌ文化 或は一般化して、被制服民族の文化をより低いものと決めてかかるのは大変に危険な事
昭和49年7月に毎日新聞社から刊行されたー北方の古代文化ー124ページである。
ここで一般化された対象は何か?
筆者は、併合時代の韓半島人を指すと考えた。
大戦敗戦後60年超の今日でも、過去の凝り固まった・古い時代の地政観が、消え失せてない。
あえて、皇国史観とまで言わなくとも、大陸進攻を是とする優勝劣敗的パラダイム史観が、未だに言語研究の世界に残存するか。残存と言わないまでも、旧時代の言語学に代わるべき新しい学究業績が、打ち出されていないと言わざるを得ない。
次に、半島サイドの国民的価値観の問題である。
パラダイムの根本において、中国志向であって。列島についての関心は、ほぼ皆無であるか・仮にあっても否定的符号しか付いてないことである。
この両国は、東アジア地中海を挟んでおり、あらゆる面で、一胞帯水<いちえたいすいト詠む>の関係にあるが、互いが向き合う姿は、理想に反しているようにしか見えないのが残念である。
〔駄足の蛇足〕
冒頭に掲げた泉流は、12月中旬に発送した年賀欠礼に向けて、創った。
その葉書文を掲げるとこうある。
   10月に山形吹浦の兄、12月に金沢の父と、永の別れをしたので、来る年の挨拶を遠慮致します。
以下略
吾が旅とは、そのような旅である。
なお、続けてこうも書いた。
過ぎ行く2012年は、列島におけるマス・マルチ・メディア改革元年となったが、その事に関与した身内の事を簡略に報告した。
4月にNHKテレビGチャンネルが放映開始したニュウスウエブ24の木曜日(24時スタート=金曜0時)レギュラー出演中(ネット・ナヴィゲータとして)である。
更に、11月に衆議院解散当日の14日から3日連続で、内閣府が実施した新・事業仕分けにも参加し、会場内(会場風景はニコ生動画が中継を担当した)に設置された大型スクリーンに映し出すツイートの調整役を勤めた。
さて、列島のメディア産業は、世界IT報告書<2012年版>によれば先進50国中49位にあり、活字除きの電気通信界における放送<=一方的発振>とネットワーク<=双方向通信>との間の連携は、上記2例が本邦初であったようだ。
21世紀はツインタワー空襲や大地震津波原発被爆で始まり、列島では「平成時代の鎖国状態」から画期が始まり、浮上しないまま固化する懸念がある。
新しいテクノロジーには容易く与しないが、若い世代の社会貢献を望む。そして、そこにこそ列島沈没を免れる方策があると信じて、自由でかっ達な希望に富む明るい未来を開く元年であれと祈る。