にっかん考現学No.42

今日は、死者葬送儀礼の最終稿である。
このようなテーマを何故採上げるか?背景を述べる。
著者の身内に、10月と12月に物故者が出たことが第1。
次に、最近韓流ドラマが大流行しており、どのチャンネルを廻しても切れ目無く放映されている状況であるが、李王朝の時代を描くもの=それは日本で言えば”時代劇”に重なる。そこから中世〜近世〜現世における日韓双方の庶民が抱いた価値観が読み取れるかもしれない。そう考えてやや消極的に眺めていると、結構な頻度で葬送シーンが出て来たことが第2。
最後は3年前だが、中国をふらり旅した際に孔子廟を訪れた、記憶が重なったが第3。
とまあ、中国文化圏のうちの東アジア3国3様を1つずつ、この3カ年間の自然体での出来事・記憶を、何らの計画も意図も無いまま掲げてみた。何ら脈絡が無いから比較・考証しにくいし、説得性もまた無い。
更に言えば、現世・現代の表層に見えるものは変化速度が激しいから、そもそも比較すること自体が無駄。その点、古層に残る風俗は、そこそこ期待できそうで、思いつく唯一の存在であろうと考えている。
前稿・前々稿で少し触れたが、東アジア3国共通の基層死生観として周礼がある。
もちろん細かい点では、韓半島の風水思想による墓地選択例や、列島における幕藩体制が強制した過度な仏教介入例など、個別の地域ごとの突出がみられる。こう書いたからと言って、中国が標準例であると即断しないよう注意されたい。
さて、列島における周礼以前の墓制を2つに絞って論じ,このテーマを閉じることとしたい。
第1は、三内丸山である。
遺跡の存在は、江戸時代から知られていたが、巨大な6本の柱穴が1994年7月に発見されてから、国民各層が抱いていた縄文イメージを大変革してしまった。
発掘層は55OO〜400年前までと幅があるが、注目すべきはやはり縄文中期の解明を進めたことにある(1997年3月国史跡指定)。
墓の特徴は、大人の土坑墓(どこうぼ)と子供の土器墓とに区分され、墓域も離れていることである。
以下は筆者による見解だが、子供は再生を願うべく丁寧に土器に収容され、住居のごく近くに葬られた。他方大人の墓からは人骨が出土されず不明な要素あるものの、おそらく土を掘ってじかに埋葬されたものであろう。
土坑墓が、集落から外に向かう道路の両側を挟むように置かれた意味は何だろうか?
死者に対し外敵・外来者からの村落防衛の役割を求めたものであろうか?
集落の外れに墓地を纏める、時空を問わない当たり前の選択と言うべきか?
第2は、吉野ヶ里である。
こっちは平野に囲まれた丘陵部にあり、やはり古くから遺跡として認識されていた。
1986年工業団地造成計画に備えての緊急発掘調査で、二重環濠の防御施設を備えた大規模集落跡が出現し大フィーバーとなった(1990国史跡・91特別史跡・92国の歴史公園)。
縄文後期〜律令時代までと長期に及ぶ層序がみられ、集落の勃興から終末期まで盛衰が観望されるが、みるべきは弥生時代の墓である。
大人が甕棺に屈葬され。骨に武器によるであろう損傷の跡、矢尻が刺さったままの死骸、頭部が失われたままの人骨などが出土しており、農耕の始まりは武器闘争を伴ったことを示している。そしてそれは、物見櫓や二重環濠を設けた集落設計と整合する。集落と墓地との位置関係は、三内丸山と同様である。
この2つは、国民的人気が高い保存遺跡だ。
スケールの大きさと眺めの良さにおいて、甲乙つけがたいものがある。
発掘時期や歴史年代に差異あること。北東北と西九州=つまり列島中心から遠く・かつ新幹線予定ルートの更なる外縁上に存在することから、共通して格好の観光ターゲットにされた。
従って、復元建造物は、どちらも過剰気味に巨大化したモニュメント的要素を備え、韓流ドラマ同様の薄い信憑性を纏っている。何とも商業的加色がどぎつ過ぎる。行政主導のやらせ臭い。
さて最後に、吉野ヶ里の屈葬の意味を考えよう。
強力な外敵が攻めて来た時に、まず真っ先に死んだ先祖が鬼となって立ち向かうべく。敵に背を向けて逃げ帰ることが無いように、足を折って葬ったのか?
それとも、ただ単に甕棺の大きさに合わせるべく、足を折っただけなのか?
棺甕を2つ使った例もあり、3つめの理由もありそうだ?
とまあ、疑問は尽きないが、年の暮れも迫っており、今年はこれまでとします。
私はさておくとして、読者の皆様は、よいお年をお迎えください。