泉流No.93  於=なぎさ

* 木々ゆれる  風の道さす  ひだの川
〔駄足] この日、飛騨川を眺めつつ昼飯をとった。
川のほとりに建つ、渚(岐阜県高山市。山の中に渚なる地名があった、近頃耳にする宇宙の渚のような位置づけかな?)の道の駅には、バルコニー・スタイルのレストランがあった。
中流域の川幅は、適度に狭く。対岸の切り立った崖は、木々の新緑からフジの花が咲く季節の推移を一覧状態に示す立て看板そのものであった。
時々に上流の方から、風が吹く。さぁーと、擬音が伴わない。それが現実である。
風の道もまた、文学的技法でしかなく。空気に色がついてないので、見る事は出来ない。
第2句の「さす」は、指し示すの短縮表現であるが、木の葉の揺らぎが、一様でなく、タテ横方向に様々であった。
遠くから見る個々の葉の揺れ方も、百葉百様であった。
風は時々止んではまた吹き始める。そのデタラメな進停の頻度が、所謂宇宙に備わる「揺らぎ」そのものであろう
〔駄足の蛇足] 
これは5月23日の実景の句である。
吾が住む北陸の地は、21日の金環日食ベルト・ゾーンからはずれており。要するに、部分日食しか見られない地域であると、メディアは報じていたのである。
飛騨川のほとりは、その帰路であった。道の駅は、食・住・衣の基本的ニーズに基づくサービスを着実に受けられる好適なポイントであり、おおいに助かる便利な施設である。
ただ、このような言わば公的施設に準ずるサービス機関は、何とも日本的である。
ここでの日本的とは、要約して言えば。”帯に短し・タスキに足らず”なのである。
では何故そうなるか?
ピンからキリまで役所に限りなく近いのである。
そのサービス精神の欠如を全てかかげることは紙数の制約上、全く不可能だ。
とりあえず、3つだけ紹介するに止めたい。
まず、レストランの開業時間がとんでもない事である。
午前10時から午後5時まで。これはとんでもない重役待遇?の板前タイムテーブルだ。つまり本来のサービスになってない、名ばかりサービス・レベルに低迷している施設が圧倒的大数なのである。
次に、施設の配置が変な事である。
「住の要素」にかかる基本的ニーズは、トイレに始まりトイレに終わる。
行財政の現状を踏まえて抑制しよう=設置費用と利用の頻度との相互矛盾曲線がクロスするポイントは、おそらく30〜50kmごとに1ヵ所くらいの設置が妥当であろうか?
因に高速道路の方は、サービス&パーキングの2種類の「エリア」があって、戦略的意図を持った配置になっている。
その点、高速以外の既存一般道路の場合は、全くそのような配置にはなっていない。
”まったくもって なっていない” のである。
過疎地は乱立気味にして、大都市周辺・関東圏は皆無に近い。
この何とも”決まらない ホンワリ?感”が、何とも日本的である。
最後の課題、それは衣類を売ってない。これもまた妙な事である。
食・住・衣の順で、基本的ニーズに基づくサービスを述べてきたので、最後はこうなるのだが、、、、
道の駅で売っているものは、すべからく土産品の類いでしかない。
傘が壊れたり、川に落っこちたりして、替えの上着や下着が欲しい時のニーズに対して全く応えてない。
以上をもって、当面の3つを掲げ終わったので、そろそろ筆を置くとしよう。
要するに、道の駅の設置者や運営者に「人とは何であるか」を理解して欲しい。
あらゆるサービスは、本来「人に備わる基本的ニーズの全てについて応える」べきである。
更に言おう   『全てについて応える』とは、24時間にして365日であり、平常もそして非常時もである。
その通りである。
道の駅は、戦略的に全国配置すべきであり、常設・常動の防災機関の役割をも果たすべきである。
この国の行政構造は、3段階の高コストにして、互いに責任をなすり付合う無責任スキームだが、その典型例が道の駅であると言えよう。
ここで一挙に時空軸が変る。
ユーラシア大陸の両端に、それぞれ小島がくっついている。
この2つのシマは、いずれもサミット常時臨席の資格を持つ。
シマの一方は、かつて7つの海の支配者であった。
仮にその史実を栄光と考えるならば、何故そうなり得たか?その栄光が未だ地に堕ちていない理由が何か?を知りたい
他方のシマは、決まらない。決めないから、動かない。
そのホンワリ感が、ひとつの持ち味ではあるが、67年前の敗戦で全てを失い・この旅の原発事故では列島沈没の憂き目を見たまま、人類史から忘れられるのであろうか、、、、、
2つの小島の対蹠的国民性の差は大きい