Kankyo-6

*労働事故と災害を考える-第6稿
環境について、考えに浮んだ不都合を初稿に挙げたが、6と7番目が同じなので、労働の現場で起る事故・災害をここで考えることにしよう。
事実は小説よりも奇なりと言う。過労死などと言う、およそ外国語に翻訳不能と想われるような事象が、この国では、一度ならず度々起る。
企業社会の外に居る人には、とうてい理解困難な事態なのだが、意外と多発するから、現実は複雑にして怪奇である。
それこそ職場心理学なんぞと言うものがあれば、サラリーマン社会の前近代性のようなものが、解明されることであろう。
死なないまでも、大病になるほど仕事に打込んで、時に発症してしまい。企業・地域・家庭の所謂すべての社会的構成員としての役割からリタイアする人がいる。これが事務職部門に従事した人物だと、なおさら判り難い。
仕事が死事<しごと>に通ずる、言わばリスキィーな職業は確かに存在する。例えば、自衛官である。
サマーワが安全かどうか?そんな事聞かれても判る訳がないだろ、と怒鳴りながらも、外地に派遣を命じた権力者が居た。結果として、流血に絡む犠牲者が出なかった事を、事情はどうあれ、単純にその場に身を置いた当人達のために喜びたいものだ。
仕事の性格上、暴力の行使に直接係わる公務員や、危険度の高い仕事、例えば、高所作業を伴う高層ビル建設の現場とか、高温・高圧の条件の下で化成品を作る化学コンビナートの作業員とか、リスキーな職場は現実にある。そして、人の世の常で、どのように人事を尽くしても、一定の確率で事故の発生は避けられない。そこで、事故防止のための指針の作成やその履行などを監督することで、間接的、側面的に予防体制の構築を促す行政の役割があり、不幸にして事故に遭遇した労働者を救済するための労働災害補償保険がある。
ところが、現実の問題はその先にある。この保険が、公的保険であるが故に、行きはよいよい帰りは怖いとまあ、想わぬパート2ラウンドを迎えるのだ。何の話も最後まで聞くか、それとも聞かないで途中退席する方がよかったか、ここが問題だ。
美談好き、後味の余韻を楽しむ。これがこの国の国民性だが、しかし、行きがかりで、後段の話を続ける。この手の保険金を受取らせないよう、とうの被害者や、時に被害を受けた遺族に対して、圧力をかける経営者が多いのである。要するに、保険金を請求しないことは、加害と被害の関係が成立しない事に繋がる。そこで示談で納めようとする力学が働らくのだ。
保険事故についての原因追及は、民事であって、メディアがニュウス報道で事故扱いする刑事事件に近接する過失性災害とは、一見別ものようだが、現実はそうでないらしい。
相当に悪質な背景があって、発生した大災害でも、被災当事者周辺から非をあげつらう声が出ないといつか立消えになり、不思議なことに刑事としての立件すらも有耶無耶になる。まさに蜃気楼が好きなお国柄だ。
その結果として、この国では、性懲りもなく、似たような事故があちこちでまたもまたかと何度も起るのだ。公的保険を運営する役人も、本来の仕事が暇のまま高級を食んでいる。
まあしかし、保険が事故を防ぐのではない。保険が事故をなかった事にするのである。
事実を隠す、闇から闇へと葬る事は、事故を防止し、事故がもたらす人間性に対する暴虐を根絶しようとする本来の努力に対する冒涜である。
保険問題など、本来の目的である事故防止の本道からすれば、脇道も脇道だ。事故根絶こそが環境問題なのである。
さて、ここで少し、原点に立ち戻ろう。人類史としては、最近の200〜250年。日本に限ればこの120〜130年のことだが、、、、
企業は、誰のものであろうか? 実は、これは社会の構成員がみんなで決めるべき事だから、決った答は無い。
ただ、ニッポンとUSAの常識では、会社のオーナーは株主で決まり。
これを与件または固定の前提との想い込みで固まってしまい、疑う人は皆無のようである。
経済活動における3つの主要要素を、念のため記述しておくが、人・物・金からなる3種類に分類される基礎資源とも。
言い換えて、労働者・原料および素材などの被加工物・資本の3要素とも言う。
ここは決めごとではない。
次に、生産活動の結果つまり事業成果としての製品は、誰のものか?
ここが決めごとに当る。
ニッポンとUSAでは、100パーセント資本の出し手に、製品の所有権がある事になっている、それを決めるのが法律なのである。
さて、製品のことをもっとも身近な外国語ではワークと言う。
ワークシェアリングなる言葉がある。欧州の一部で行われている考えだ。
この国のエリートの翻訳では、労働分担制となって、週5日A一人が働くのを、AとBとが按分して働くことに変更し、受取る俸給もそうなるのだと言う。Aにとっては、大幅減収となる事態なのだ。
筆者のような愚者が直訳すると、事業成果の共有となるのだが、、、、
翻訳エリートの胸の内を忖度すると、労働力も被加工物も金で買えるのだからモノ扱い。
だから金を出した資本家が所有する。それで当然だと想っているのだろうか?

待てよ。事業、それはどんな体制であれ、どの地域であれ、単独で孤立する存在だと考えて良いのであろうか?
またまた、外国語で申し訳ないが、、、、
事業体を取巻くさまざまな立場を総称する言葉として、ステークホルダーがある。
短い語数で内容を適確に表す翻訳語が欲しいものだ。利害関係人では、あまりに肩身が狭くて「お邪魔虫のゴロツキ」が右往左往しているようなイメージであって、好ましくない。
ステークホルダーをことさら局限して狭く範囲を設定するのが、ニッポンとUSAである。
そんな社会では、経営者は神のように全能の存在であって、企業秘密もまた都合よく法で保護される。
そして、だからこそ狭域改革をどのように実施しても、社会がよく成る兆しは無い。
その対極となるように法律を決めているのが、ドイツである。
経営陣は、資本家代表と労働者代表と地域代表としての地方公共団体との3者によって構成される。
この国では、ペットを金で買う事は出来ないのだと聞く。
ステークホルダーもまたペットのような存在なんだろうか?
あ!脱線です
生きとし生けるものは、尊厳をもって遇されるべきと考えます。
尊厳は、どのようにしてもカネと交換できないと想うのです、、、
環境を考えることは、まずそこから始めましょう