もがみ川感走録 第21 かぶの5

もがみ川は、最上川である。
特産品=カブの第5編だが、〔遠山カブ〕の続編である。
直前の稿で、ダイコンは梓山(ずさやま)・カブは遠山と紹介した。
”遠山蕪”の方は、広く知られる特産品となり。一時期産地となった。
焼畑ではなく普通畑で育てるが、畑一面に種子を散播する方法である<畦を造らない栽培法>。
実は、この散播法は、焼畑固有のスタイルであり。カブの原産地とされる地中海農法の一特徴であるとされている。
散播法は、多種の種子が混入しやすい原始型農業であり・自生化しやすい栽培種(=野生種ではないから原野ではなく農耕地の中でのみ自生する)であるカブにこそ相応しい。
上杉鷹山は、そこまで見透して、遠山にカブ栽培特区を設定したのかもしれない。畦を造らない栽培法は、農作業量を軽減させ・積雪期の現地貯蔵を容易にし・生産量増加の面でもメリットとなる。
そして、この種子散播法は、多雨多湿の列島では珍しい農法と言えるが、ここから列島文化の一類型を表出することができそうである。
脱線ついでだから、簡単に触れておくが・・・列島に産し・日頃我々が食卓で口にする野菜は、その殆どが外来帰化植物種である。因みに列島原産種は何だろうか?と、調べてみたら。フキ・セリ・ミツバくらいしか見つからなかった。
さて、外来帰化植物種のダイコン・ナズナハコベなどは、最も伝来時期が古く。上古渡来の随伴雑草の類いであるとされる。
雑草なる用語は、どうかと思うが。その意味は、本来意図されて導入されたイネ・ムギなどの作物種に付随した雑草として無意識に導入されたが、その後列島人が着眼・発見して、栽培改良されて、原産地とは異なる進化の過程を辿り、食材として定着するに至ったもの。である。まさにその過程で散播法農業が、機能したものと考えられる。
この分野は、民族植物学なる比較的新しい領域でもあり、前川文夫博士は、史前帰化植物なる用語を提唱している。
さて、上杉・米澤藩の藩政改革におけるメッカ・フイールドは、遠山なのだが。これも細かい踏込みをすると、秋カブが遠山で・夏カブは塩野<現・米澤市内。北部>と区分して栽培地指定がされたらしい。
その”遠山蕪”の特徴を述べたいのだが、筆者は漬物として購入し・実食しながら、栽培現地に踏込んだことがない。文献資料からの引用でしかないことを、予めお断りしておく
根<=厳密に言えば、胚軸部>が青首、円錐形、肉質感のある繊維質、甘味に富み、ス入りしにくいのが特徴である。
最後の”ス入りしにくい”利点は、栽培農家による長年の改良工夫の賜物と考えられる。
米澤・置賜地域は、有数の豪雪・寒冷地帯であり。栽培野菜をできれば翌春まで・なるべく長期に貯蔵できることが、望ましい利点となる。その点で”遠山蕪”は、2月頃まで出荷できるように、藁囲いするなど地域固有の工夫があるらしい。
さて、ここから更に厄介な話題へと踏込む。
先の稿でカブは世界中に広まったと述べ・今日は上古渡来の史前帰化植物であると書いた。
これほどに時・空軸がロングかつワイドだと、植物学的にカブ種であっても。食材としての利用部位により、呼名が変る。しかも、地域伝統野菜として固有の名称で流通することがフツウである。
ツケナ・カブナ・ミズナ・京菜・壬生菜・野沢菜などいずれも葉もの<植物の地上部位>野菜の優品だが、世間一般では地下部位にのみ着目されるカブと同類とみなされてはいない。
それほどカブと「ナ」は、別系統との常識が根強く固定しているのが現状だ。
米澤に「雪菜」と呼ばれるツケナに含められる伝統野菜がある。地域名を付けて、“米澤・ナ”と呼ぶこともできる地域独自の名産優品である。
蔬菜園芸学の青葉高は、著作「野菜」(ものと人間の文化史No.43)の中で、「雪菜」を野菜の芸術品であると絶賛している。
その栽培法は、秋植えし、その後積雪により寒風から保護されつつ・暗黒の雪中で黄白色に伸びた花茎<=植物の地上部位>を食材として利用するもの。いわゆる越冬食材である。
越冬食材の重みは、戦後の流通環境の激変により、生鮮野菜の長距離輸送が容易となり、大幅に後退したが、現今でも古いものにも良いものがあると言うべきであろう。
それほど野菜の種子を保存し・継承し続けるワザは、地味にして力強い努力である。
地域野菜の伝統とは、営々と先祖の汗と涙の結晶を今日まで伝え・将来まで残し続けようと考える農業者の意気込みによる成果である。もっと光が与えられてよいのではないだろうか
その土着農民の不動のたくましさを見抜いた人物として、明治初期の英国人女流旅行家イザベラ・バードを挙げよう。アルカディアの地とされる要素に、内陸の奥地なる地政学的メリットを含めたい。
さて、前稿で予告した「冷や汁」だが、米澤では雪菜を用いるとされる。
料理名「冷や汁からして、夏の料理と速断されやすいが。正月料理であり・合戦前の出陣において振舞われたともされ、”具たくさんのおひたし”である。と書いてある。
さすれば、公式の場において、普段階層の違いや職能分担差から顔を会わすことが少ない者達を含めて、一堂に会して・一斉同食するための料理と考えるべきである。
となれば、調理人にとっては、最も存在価値を発揮できる。いわゆるハレの舞台だ。具たくさんとは、食材の多様と大量の調理とを意味するから。前倒し着手・事前準備が前提となる。
その場合、ネックとなるのは出陣式の会食だが。
織田信長が始めた兵農分離=武士の戦闘従事専業化と城下町への移住と集住の実現=が実を結ぶ以前、年がら年中合戦していたのではなく。合戦シーズンは、おおむね出来秋収穫後であり。調理人も、そこそこタイミングを読み・事前準備するチャンスはあったようだ。
更にウィキによれば、現代の宮崎・埼玉・山形米沢に残るとある。そして、鎌倉時代の文献である〔鎌倉管領家記録〕の中に「冷や汁」の記述があると言う。
具たくさんの料理と言えば、賄い飯も該当する。繁忙時のインスタント調理だが。こっちは、野菜切れつまり寸足らずの余りモノを寄せ集めて造るが、食材が多様であるだけに加熱時間の長短や味つけの工夫など、求められるワザの方は高度なプロフェッショナル水準だ。
そう考えると、「冷や汁」は、オセチ同様、一層事前に調理された料理を意味する。
ニイガタ郷土料理の「のっぺ」なども、連想される。
各地に繁忙期に備えた・ある種の保存食的要素のある料理が存在すると言えよう。