北上川夜窓抄 その25 作:左馬遼 

この稿を書くにあたり、過去に遡ってみたら・・・・
去年の暮れに書いた、第24稿が最新ページであった。ほぼ半年ぶりの再開である。
なぜにこれほどのブランクがあったかと言えば、吾が人生のスケジュールがそうであったと言うしか無い。全く答にならない。
過ぎた年の年末を以て、きり良く終らせたつもりであったようだ。思い出すと当時は体調が思わしくなく、春を迎えられるか?もう新しいサクラとの出会いはない不安すらあった。
しかし、人生の予定は、希望も無いかわり、想定外のスケジュールもまたあるものらしい?
生きて退院する事はないであろうとの、ある意味ゆったり構えた長い入院暮らしで、夜のさなかにフト目が覚める。病院なる集団ルールの中では、昼と夜をしっかり認識して、一日を過ごす事が大事だ。
70歳にもなると、元の眠りにすんなり・速やかに戻ることはとても難しいのだ。
そんな時、姫神の音楽を聴いた。
想いにふける・考え事を始める=そんな事が無いようにひたすら勤めた。
音楽を聴きながらいつの間にか、安らかな眠りに落ちる。そんなラッキーな夜が何度もあった。
いつの間にか?入院生活も2ヵ月が過ぎ、病状は生き返る方向に傾き始めた。
覚悟の入院生活であったが、退院を考える方向に切替えざるを得なくなっていた。
それまでの世捨て人のような生活は、ほぼ数年に及んでいたが。
余命が少し長引くとなれば、そうした生き方に切替える必要が出て来た。何も無い病院生活の中で、ゆっくりと時間をかけてフツウの生活に戻る方向を摸索した。
意外な事態もあった。なんと病院の中で、Wi-Fiにアクセスできた。
結果ではあるが、上出来のハプニングであった。入院中に別稿の「もがみ川感走録」を執筆し・リリースした。
次いで、本稿「北上川夜窓抄」の再開を考えた。
さて、何を採上げようか?
やはり、長かった夜の病院のベッドで何度も聞いた『姫神の音楽』を採上げたい。
退院から、既に2ヵ月が過ぎた。未だ書けないでいるが、その原因は、次稿以下で述べるとしよう
姫神との出会いは、ただ1度だけ。新潟時代に屋外公演を聴いた。ざっと25年も前の事だろうか?
手持ちのCDからすると、その後の三内丸山発掘以後の発表曲もあるから。その後のフォロウも暫く続いたことになる。
三内丸山と言えば、国民的規模でヒットした名曲=神々の詩を思い出す。縄文語で作詞された女性ヴォーカルでのコーラスには驚かされたものだ。
とまあ、書いても本稿ではここまでだ。『姫神の音楽』については、後日稿を改めて述べる事としたい。
因みに、病院でのアクセス環境だが。iiPhone1台を持込んだに過ぎない。
あらためて説明する事でもないが、携帯式の電話・メモ帳・辞書・カメラ・ラジオ・ラジカセ・懐中電灯などの諸機能を、ただの1台でこなす魔法の手帳だ。
持ち運びの苦労も無く、胸のポケットに収まる大きさ=まさしく手帳大のマジックボックスだ。
驚ろくほど暇つぶし環境が、やすやすと形成される時代が到来している。
本日は、再開予告編であるとして、ここで筆を措く