おもう川の記 No.47  阿武隈川の17

阿武隈川のシリーズも今日で第17稿、もう終盤だ。
『川そのもの』を主柱に据えるのが主旨であり。この〔川に因む人物・人脈のコーナー〕は派生的・トピックスコーナーでしかないのだが、、、、意に反し既に5稿まで進み・先月をもって終りとした筈だった。
だがしかし、今月になって、取りこぼしのあることに気がついた。
そこで今日の第6稿番外編は、引続き三春藩主の家柄である安倍・安藤・秋田氏を繙く。
古志族に連なるこの一族が大族であるからとか・律令政治の中核となったヤマト大王家より列島進出時期が古かったことを以て、大ボリュウム云々などと、決して言い訳したくない。
ひとえに筆者のダラダラ書きを猛省する。無計画な著述を申し訳ないと思う。
さて、今日の主役は、秋田輝季(てるすえ 1649〜1720 三春第3代藩主・第4代幕藩大名=在任1676〜1715)だが。馬産事業に注力して、藩財政を豊かにしたことで知られる。
しかし、後年実子に先立たれたことから急速に意欲を喪失し、遠縁筋の家臣家系から養子頼季を迎えて隠居した。このことが契機となって、輝季の死後。お家騒動=享保事件が起ることになる。
本論との関係で言えば、幕府が決める三春藩の家格は外様大名だが。名族願望が強かったらしく、幕閣筋に取入り・後に譜代並みを獲得している。しかし、その実現時期を解明するまでに至ってない。
とまあ、ここまでが前触れである。
本稿では、秋田輝季が日本薬業史で果たした重要な役割について概論する。
所謂江戸城内腹痛事件の一節だが、知る人ぞ知る、広く知られた逸話でもある。
健康な人には到底理解しにくいことだが、体調の不良は、その多くが・予告無く突然に襲って来る。そしてしばしば重大な任務の直前であるから、困った事態になることが多い。
彼の腹痛の時は、そこに居合わせた・さる大名が、すっと印籠から薬を差出してくれた。輝季は、時と所を弁え、厚意に甘え・ただちに服用した。
その日の任務を全うすることで、事なきを得た。
以上が「江戸城内腹痛事件」の全貌である。
この程度の親切は、美談であるが、現代ではさほど騒がれる話題でもない。
年々歳々川中島で殺し合いを展開する敵に塩を送った戦国武将も居た。
まして、武家社会といえ平和な江戸の城中だ。自家薬籠中の常備薬を差出すくらい、格別騒ぐことでもないと言えよう。
それが証拠に?三春藩側にそのような記録は特に残ってないらしい。
ところが、この事件を足場にして?地場産業を起こすに至った地域がある。約300年後の今日では列島中最大規模の地域基幹産業にまで成長している。
その地域は、どこか?となると・・・・阿武隈川流域でも・福島県でもない。よって、以下の話はほぼ脱線となるわけだが。かと言って、ここで打切りにするわけには、おそらくゆかない。
行きがかり上、切りの良い所まで、続けることとしよう。
薬を差出した大名の名は、前田正甫と言う。富山藩主にして・富山売薬の租とされる。
ここまで来ると、まさに出来過ぎたストーリーとばかりに、しきりに眉を拭うが・・・
和漢薬の本場=富山では、知らない人がない。おそらく一方の当事者たる富山では、「江戸城内腹痛事件」は史実と解されているであろう。
さて、1961年に完成した国民皆保険制度だ。既に半世紀が経過し、世界に冠たる臨床セーフティーネットの構築と定着を見たわけだが。
その制度発足当初、富山売薬業者の倒産多発が懸念された。しかし結果はみごとに外れ。富山の薬事業は、更なる拡大を果たし・今も繁栄を保ち続けている。
それにしても、医療従事者の増大、医師長者の簇出、対蹠的な財政赤字の膨張は目を覆うばかりだ。誰がかかる事態の展開を予想したことだろう。
このままで推移したら、医療財政が破綻して、医療サービスが受けられない懸念がある。財政健全化は焦眉の急であり・ギリシャよりも早く不測の事態に向かう不安すらある。
いささか脱線した。
要するに、国民を外野に晒したまま一方的に押しつける・役人主導医療システムのままでは、国民が抱える健康問題は、まず解決に向かわないであろう。
さて、”腹痛事件”が起きたのはいつ?どこ?か
答は、元禄3・1690年、江戸城は帝鑑の間。服用した薬は、越中富山の万金丹ならぬ反魂丹であった。
反魂丹を常に持歩いていた41歳の男が、前田正甫(まさとし 1649〜1706 富山第2代藩主・第2代幕藩大名=在任1674〜1706)で。
出されたアンポンタンじゃない反魂丹を呑んだのが、同じく41歳の秋田輝季であった。
因みに三春藩は5.5万石、富山藩は10万石。ともに外様大名である前提に立てば、江戸城内における詰め間としての”帝鑑の間”は、外様・無役の所謂表大名に指定される詰め間だからリーズナブルだ。
と言うには、まずその前に、参勤交代をおさえる必要がある。
第3代将軍家光が、寛永12・1635年制度化した。当時全国に350ほど藩があったが、1年を自領内で過ごし・その翌年は江戸に上がる。
あらゆる大名は、隔年ごと江戸に在府する義務があった。江戸に居る間は、毎月と・五節句ごとに登城して、将軍に観<まみ>えることが、最重要の役目であった。これぞ参勤交代。
指定された日に江戸城に入り、将軍に拝謁するまで。殿中に7〜9つほどあったとされる・指定の伺候席=詰め間で待つしきたりであった。
将軍謁見が最も重要な任務だから、腹痛であれ何であれ、詰め間から逃げ出す事はしくじりとなる。
さればこそ、当事者の2人より。その場に居合わせた傍観者だった多くの大名のほうが、より強く印象づけられた。
下城直後、各自の江戸屋敷に戻り、家臣達に話をし。反魂丹の情報収集やら入手かたやらを指示したことであろう。大事に備えることこそ武士の心得であるし・平時の常備薬もまた心得のうちである。
移動禁止・身分固定・地域分権の幕藩時代に、他領に出入りする事はもとより困難であった。”腹痛事件”が契機となって、トヤマ売薬と名乗るだけで、容易に他藩領への出入りが許されるようになった。
もう話すべき事は、殆ど無い。
「反魂丹」について、やんわり説明しておこう。
こっちにも、例によって出来過ぎの匂いが強い・完備した話がある。
反魂丹の元となる「延寿返魂丹」の製法は、泉州堺浦万代村の万代家<もず家>に伝わったとされる。
反魂(はんごん)も返魂(へんごん)も、三途の川の畔にいる病患の魂を呼戻す意味、薬の効能としては強力無双の限りだ。
万代家の家伝を続けよう
家祖の万代掃部助(室町幕府第3代足利義満時代の人とされる)が、遭難した異国船の乗員を手厚く介抱したので、唐人から謝礼として製法伝授されたとある。現・大阪府堺市に百舌鳥<もず>古墳群があるが、外交・交易港としてこれまたリーズナブルな時空間となる。
万代家第3代主計が、備前国和気郡益原村に移住し、医業を開業。名を万代常閑<まんだいじょうかん>と改めた。その後、8代に至って岡山藩主池田忠雄の抱え医師に召出された。
その反魂丹が、前田正甫の常備薬におさまる経緯となると、一層曖昧であるべきだが。これもしっかり”わたり”がつくから不思議だ。
当時の富山町に、薬種商を営む松井屋源右衛門なる伊勢商人が居て、この者が万代常閑の遠縁であったとされる。
とまあ、以上のような話が、すべて繋がって。現代では、約300年間の歴史を誇る薬業中心トヤマ産地が形成される。
しかし”腹痛事件”の頃富山の地では、製薬も売薬も未だ組織的に行われてはいなかったらしい。
では江戸時代の初め頃、家庭向け常備薬の知られた先進域はどこであったか?
それは、大和・近江・肥前(現・奈良・滋賀・佐賀の各県)であったらしい。
中でも、伊吹山に近く東海道中山道の主街道を抱える琵琶湖周辺が、高名な薬業地であった。
当時は薬業後進地であったトヤマ=そこが最も真相らしいと頷くのは、いささか疑い深い筆者の臭みだが?経済後進の典型地たるかつての北陸富山に相応しいスタート条件である。
現在この地は、北陸新幹線の開業を目前に控え沸き立っている。開通後は約2時間で首都圏に直結することとなる。
しかし、本来の自然風土を客観的に直視すると、この地は恵まれてないと言うのが真相である。
富山湾の雨晴海岸に立つと、すぐそこに聳え立つ立山連峰の高峰群が見える。
この景観は、平野とは名ばかりで、富山の狭さを如実に物語っている。
急流・大河が多く、田園の横幅も奥行もごく小さい。
海辺で標高3千メートル級の山並みが仰げるミニワールドだ。
豪雨により土石流が多発する水害常襲地帯であったから、江戸時代を通じて農業米作には不向きな土地であった。
最後に、その窮地の中でみごとに活路を拓いたエース前田正甫の身辺を抉る。
富山前田家は、あの百万石で知られた加賀藩・本藩<金沢>の分家である。寛永16・1639年本藩第3代前田利常が隠居すると同時に17万石を分けて支藩を2つ新設した。
富山藩初代・利次は、利常の次男だから、正甫は明君とされた祖父の孫に当る。
正甫には、頑張らざるをえないハンディがあったとも言う、支藩設立時に本藩官僚群は、経済的負担力を遥かに超える大量の藩士団を新設支藩に押付けた。スタート当初から富山支藩の財政運営は深刻であったらしい。
江戸城腹痛事件”から約60年を経た明和年間(1751〜72)には、行商人2千人・列島全域を21に区分した「仲間組」が、結成されているなど。新興の製薬・売薬事業は、順調な足取りを示していた。
更に180年後の幕末頃には、藩外へ他出して回商する売薬人が年間3千人の規模に達し・年累計20万両を故郷に迴金したと言う。れっきとした基幹産業に成長し、藩財政の15%を担うまでになっていたらしい。まさに前田正甫が放った窮地脱出のサクセスストーリーといえる。
では、成功の秘密はどこにあったか?
まず  焦熱地獄で知られた立山信仰なる宗教組織の存在である。
世に三霊山なるコトバがある。富士山・立山・白山の3つ。
3つのうち2つが加賀前田領内に立地するのはどうしてか?
藩主導の強力な宣伝活動が存在したに違いない。
江戸期既にマーケティングの実践・PRアドヴァータイズがあったらしい・・・
布教とは、まず信者の悩みを解決する活動から始まると言うが、施薬・売薬はその範疇である。
次が。北前船のもたらす蝦夷産海産物の搬入である。
昆布ロードなる決まり文句を聞いた事があるだろうか?
昆布は、それ自体和漢薬の素材だとも言う。しかし、富山人は、交易商材としての俵物を北海道から運び込み・自力で密かに薩摩まで届けたらしい。
薩摩藩は、琉球支配下に置いており。昆布などを対中国・時は清王朝に直接輸出した。帰り荷として入手した中国産の生薬<しょうやく 薬の原料たる動・植物由来の素材>は、昆布の代価として富山にもたらされた。
これは海禁政策を採用して・貿易を独占した幕府からすれば、密貿易に当る所行であった。
さて、”江戸城腹痛事件”だが。一方の当事者として秋田家が選ばれた?のは何故だろう?
その前に、果して、史実であったのだろうか?
いずれも愚問ではあるが、この謎はおそらく解明されないであろう。
しかし、筆者なりの解法はある。
まず、安倍安藤秋田氏は、海洋民に近い名族家系であることだ。
古志族の中核を成すのは高句麗難民の渡来民系であるとする説がある。〔高麗人参〕なる有名な伝統民間薬に最も縁が近い家系と認識した人がいたであろう。
ここではこれ以上踏込まないが。コメにまつわる大黒サマは出雲系が祀り・エビスさまを祀ったのは珍しい北方海産物を京都にもたらす古志族であったとする説。これもまた傍証となり得る・・・?
まだある。安倍安藤秋田氏は、鎌倉時代の初め頃から蝦夷管領の職に就いていたとする伝承を思い出してもらいたい。
さて、古志族に因む高志の地はどこか?と言えば、地名に『越』音が付く地圏だが。
その後律令下で越前・能登・加賀・越中・越後・出羽の6国に分国された。
前田正甫が支配した領国=越中は、フンドシ=褌だけではない、家庭常備薬の本場でもある。
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広貫堂資料館および富山市売薬資料館K学芸員から多くの指導を賜りました