もがみ川感走録 第8 最上川舟唄の4

もがみ川は、最上川である。
最上川舟唄は、最上川舟運で生計を維持した者達の労働唄であると考えたい。今日は歌詞に出てくる小鵜飼船(こうかいぶね)をも含めて、舟運従事者の暮らしを紹介する。
小鵜飼船は、ヒラタ・船<漢字だと扁が舟・旁が帯>との関係を睨みつつ、要約整理すると以下のとおりである。
最上川舟運と言えば、まずヒラタブネありきである。
江戸時代の主たる積載物と言えば、下がり荷がコメ・上り荷が塩である。
ともに陸送との競合があるが、ヒラタブネ1艘が乗組み船衆3人で250俵のコメを一括輸送した。経済性=コスト面で圧倒的に有利だが、定時性の点に弱点がある。
コメ・塩は、当時の輸送物の中でともに最重量物資であり・しかも保存に富む生活必需品であったからこそ、舟運のネックである=「荷物が何時?届くか判らない」=非・定時性をカバーして、陸送を遠ざけたと言えよう。
ヒラタブネは、名前のとおり底が平らな・帆船である。酒田船とも呼ばれ、酒田港と中流域にある河岸=大石田との間を主に往復した。
ヒラタブネなる名の舟は、淀川にもあった。列島のほぼ全域に存在したと考えられるが、造船資料が全く残されておらず。その系統関係の解明は手つかずのため、名のみ共通であっても舟体としての関連度は不明と言わざるを得ない。
いわゆる下流庄内平野流域を主な活動の場とする・最上川舟運史の始まり=創成期を物語る大型船。それがヒラタブネである。
対する小鵜飼船は、最上川舟運史の後期に出現する。17世紀*の後半=*印:末尾の注を必読されたい)にやっと顔を出す存在だ。
その活動は、まず上流=置賜流域から始まった。
河床岩礁の多い最上川にこそ、特化して本来の効能を発揮する船幅の細い・小型の船である。
それが証拠に、幕末から大正の初めにかけてヒラタブネを駆逐して最上川舟運の主役を担った。
小型船とする意味だが。下がり荷のコメを40〜80俵(=ヒラタブネの3分の1乃至6分の1)しか積めない。建造コスト安く・運動性にすぐれることでヒラタブネを凌いだ。
前稿でも書いたが。五百川(いもがわ)渓谷にある黒滝・難所が開鑿されたのは元禄になってからである。
この時に全流最上川舟運時代に移行した。
米澤外港たる糠の目(=最も上流の河岸)から酒田港まで一貫通航<公称54里=換算距離216km>が可能になった。大型のヒラタブネに頼ることができず、暫くして小鵜飼船の独擅場となった。
それほどに最上川は河川長が長く、上・中・下流と流域毎の性格が激しく変化する大河川であった。
小鵜飼船の運動性とは、船腹が狭く(個別注文生産で一定しないが、最大でも約*30cm以下=*印:末尾の注を必読されたい)川幅の狭い急流部も通過できた事、河床岩礁への対処でも操船しやすく安全度が高かった事を指す。
操船と川幅との関係は、意外に複雑な高等数学である。
単純に両岸の堤防内法を結ぶ長さ(=2点間の距離)をもって川幅とは言わない。
最上川の川幅を規定するものは、全流の中で最も狭い河床岩礁の間の最短距離である。
高等数学とする所以は、複数の河床岩礁=川の流れに対して左・右・上・下の各方向距離を、船頭は瞬時に計算して・通過コースを決め、船体の安全を確保する必要があった。からだ
速算対象の変数はまだある。
まず水量の増減(濁流増水時・豊水・平水・低水・渇水時などの5パターン)を加味する必要がある。本来の岩礁は不動だが、季節により・降雨量の変化により深・浅データが刻々に変化した。
岩礁は、眼に見えるのが露岩・見えないのが暗岩・見えたり隠れたりするのを洗岩と言うが。どんな状態であれ回避が必要であった。
次に小鵜飼船の長さ(個別注文生産、概ね小鵜飼船は約20m)だ。本来固定された長さだが、川の流れの速さに応じて変数に変るのでダイナミックに折込み概算された。
読者の皆さんは、川下りの体験から想像しておられるだろうが。それでは「筏乗り」の延長でしかない理解である。
いささか脱線だが筏のことも述べよう。
上流部から単材で川下ろしされた木材は、途中の合流部において専門家によって筏に組まれる。筏乗りは2人組、先乗り(=流れ下る側の端に乗るベテラン)が前舵を操作しつつ・若い方の乗組員に対して主に後ろ手で合図して後ろ舵の操作を指示する。
そして、中流域や下流域にある目的地に達したら、筏を引渡して・手間賃を受取り。徒歩で上流に戻る。
筏は目的地たる木材集積地で解体される。よって、筏は川下がりだけの一方通行の搬送である。
しかし、決して安全な仕事では無かった。筏を構成する個々の木材の長さは不定・生木は重く・半水没状態。流速の最も速い川の中央・豊水部を高速移動する。筏には乗組員用の足場も無い。つまり、危険が一杯だ。
今に残る教訓として、『筏は組んでも乗っては行くな』とか『筏は仇と乗るな』などがある。後者の意味するところは、前乗りの指図に迷わず瞬時に従う気の合う者とペアを組みなさいである。
筏乗り・小鵜飼船乗りの双方をこなす船衆もいたと言う。どちらも同じくらい危険な重労働であったようだ。
それを物語る教訓的伝承もある。『たとえ仇の子でも船頭にするな』である。これは置賜流域でのみ囁かれたと言う。上流部固有の苦労として、航路が長く・航行日数が長い。リスクの累増と言う独特の困難さがあった。その詳細は下記のとおりである。
船乗り船頭は、筏乗りと異なり。川下がりして河口で荷を降ろすと・上り荷を積み込んで今度は川を遡上する。途中には60箇所以上の難所があったし、遡上航路は竿を使ったり・土手に上がって曵き縄を曵くなど、肉体を限度まで酷使する重労働であった。
因みに難所だが、下がり難所・上り難所の別。上下とも難所・名うての大難所もあった。
しかも途中の風待ち停船などもあって、1航程に1ヵ月以上を要するなど。長期に家を空ける特殊な労働サイクルを余儀なくされた。
更に航海中の居住は、一貫して船の上であった。
積み荷満載を想定した輸送船であり・船上の狭い居住区に炊事道具を積込み・川の水を使って3食とも自炊した。夜になると川の淀みに船を停めて船上にそのまま寝込んだ。積み荷を泥棒や不意の増水・激流発生から防衛する必要もあったからだ。
1艘の小鵜飼船の屋内(やうち=乗組員の基本編成)は、3人で構成されるが。上り荷が多く満載状態のときは、曵き縄要員を増雇いするので。それでなくても狭い船の居住部の中で、飲食・睡眠をやりくりする苦労もあった。複数の舟が集まって集団・相互扶助の船団航行が常であった。
屋内に話題が及んだので、流域の違いによる乗組慣行の差異を紹介しておこう。
下流大石田〜酒田港間は、3人構成が後に2人制に移行したと言う。しかも親子・兄弟ペアが多かったと言う。それに対して、上流の置賜舟は、親子・兄弟ペアを回避する慣行があったそうである。
この2つの明確な差異は、どこから来るか?と言えば。航行における危険度に由来すると考えるべきであろう。
下流庄内平野流域は、破船・転覆などの事故がほぼ皆無であり、名高い大難所=山寺乱流部<右岸が松山町・山寺。左岸は余目町>すら運航日程を調整してリスク回避し。平常のビジネスワークに近い職種と認識されていたことであろう。
肉体を酷使する遡上舟航でも、海に面する庄内平野であるから西北方向から吹くことの多い海風を帆に受けて、比較的スムーズに乗切れたかもしれない。大石田〜酒田港の間を往復するだけの航路に従事すれば、家を10日も空けずに済んだろう。
対する上流の置賜舟が、身内間の相乗りを避けたのは。1回の遭難事故で1家または1族の男手をことごとく失う事態を想定して講じた防衛策と考えられる。つまりそれだけ置賜舟運は、ハイリスクでビジネスに遠かったと言えよう。
因みに、遭難により放置された川の中の積み荷が、どんな運命を辿るか?ご存知であろうか
正解は、発見して引揚げた者の所有に帰するである。全流における慣行でもあった。
中流域に住む住民には、縄で繋がった3俵のコメを拾った話とか・・・激流逆巻く難所の下流域付近に踏ん張って、家1軒分の木材を拾った剛の者の話などが伝わっていると言う。
最後に、山形名物『芋煮』が、小鵜飼船に由来すると言う。よく知られた話をして筆を置くことにしよう。
小鵜飼船の航行所要日数は、上述したように不定期であった。季節別・降雨量・川水の流速により,その都度変動した。特に上り船は風待ち停泊など予想外に長期化したりする。
加えて積み荷の状況に応じ時に綱曳き要員を臨時増員した。
そうなるとすぐに影響するのが、手持ち食糧の備蓄である。
解決策は、日頃顔なじみの川沿いの農家に飛び込んで食糧を分けてもらう窮余の一策となる。比較的入手しやすかったのは、里芋または芋の子であった。なんせ自らが移動する自炊舟であるものの、川から離れられない不自由さもあった。
芋煮会の基幹食材もまた里芋である。一説にコメよりも古く縄文時代に既に列島に受容された栽培食糧であるとも聞く。
現代のイモと言えば、ジャガイモかサツマイモが浮かぶが、これ等の列島伝来は江戸時代とかなり新しい。つまり山形の芋煮は、それほどに歴史が古い存在であるのだ。
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<注>  本文中の錯誤を訂正します  *印の箇所・2ヵ所
1 小鵜飼舟の導入時期 17世紀でなく18世紀が正しい 
2 小鵜飼舟の船腹   30cmでなく130cmが正しい
     11月1日をもって訂正します