にっかん考現学No.65 通信使の15

朝鮮通信使の現場を訪ねての実地踏査レポート 蒲刈・編の第3稿である。
本稿の書出しは、一部前稿で書いた事を繰り返すのだが・・・・
三之瀬・瀬戸(さんのせ・せと)つまり朝鮮通信使資料館「御馳走一番館」が建つ前方の狭い水路=実はその航路は、幕府が定めた指定航路であり、しかも多くの船が利用する、ごく当たり前の進行海路=海峡だ。
三之瀬・瀬戸は、上蒲刈島下蒲刈島の間にある海峡。この時代多くの船が、四国沿岸を避け本土陸地沿いを選んで通る。
それは何故なのか?その背景なり・理由なりが、判然としなかった。
瀬戸内海なる地名の由来は、海峡=狭い水路がぎっしり詰った内海(うちうみ)からとなろう。
来島海峡を徹底して避けるのは、何故だろうか?頭では漠然と判るが、操作困難度がより高い帆船の針路を。何故わざわざ本土陸地側へ大きく傾いて選ぶ理由が今ひとつピンと来なかった。
陸を歩き・車で通るだけで、海の男ではないから・・・・
まして、朝鮮通信使の頃=帆走・風任せ時代の航走術についての知識は全く無い。
さて、では朝鮮通信使一行は、実際どう往復したか?
この際、全行程を復習してみよう。
始点・終点は李朝の首都・漢城<ハニャン・今のソウル市>。韓半島を主に陸路経由で、釜山まで。
海路は船団を組んで釜山を出帆、対馬を経て。関門海峡からいよいよ瀬戸内海へ入り、東の果て=大阪へ達する。
海路コースはここまで。大阪から江戸<時に日光へ>までは、陸路を往復した。
さて、三之瀬・瀬戸だが、朝鮮通信使の船団は、幕府指定の当該海域担当の水先案内やら警護を担当する多くの日本側船団に前後を挟まれながら、往路は南から北に・復路は北から南に抜ける。
上蒲刈島下蒲刈島の北側の海域は、安芸灘(あき・なだ)。反対の南側海域は、斎灘(いつき・なだ)。と一般に呼ばれる。斎灘をそのまま東に進むと控える瀬戸が、来島海峡=魔の手である。
朝鮮通信使を含む多くの船が、魔の手を避けて三之瀬・瀬戸を通った。
前稿ではそう書いた。10日経過したが本稿では訂正しない。が、以下のように今日補足したい。
実はこの10日の間に、石川県加賀市北前船の研究会があった。
この会には既に何度か出席しているが、今回は恵まれた。
10日間の疑問を、先輩研究家にざっくばらんに質問し成果を得た。就寝までの短い歓談のタイミング・同室者に恵まれた。
80過ぎの老練ポパイ氏は、嬉々として教えてくれた。
「とにかく三原の前海を通る。そこが安全コースなのだ」
もう一人70過ぎの尾道人も、淡々と追認した。
筆者は、たちまち理解した。と、しておこう。書いた事を直さずに済むと、安堵した。
さて、三原市尾道市だが。互いは接している、ともに広島県の臨海タウンだ。この両市の前面もまた多島海そのものだが、数々の瀬戸を通り抜けた先。
東の広い海域が、備後灘・燧灘(びんご・ひうち)である。
この辺を通過すると、瀬戸の上・島の空も高いところに多くの橋桁が見える。本土側の尾道と四国側の今治を結ぶ、俗称「しまなみ海道」である。
やはり、来島海峡は、とにかく恐れられたのだ。
正しく理解するためには、もう1つあった。 ”潮のこと”である。
尾道人士は、少年時代を彼の地で過ごした。”潮のこと”は、まさに染着いた・しょっぱい体験である。
瀬戸内の少年が大人になるために、通り過ぎねばならない試練があった。
目の前の瀬戸を泳ぎきって対岸に達し・そしてまたこの地に戻って来ることであった。
小さい心に大冒険を強いる。生命賭けのプレッシャー=一人前として認められるための過酷なテスト。
「瀬戸の男」は、瀬戸を往復して”潮”を制した。とにかく実績がすべてであった。
安全に生きて還るための秘訣は、意外にも”強い潮を泳ぎきること”であったようだ。
もちろん泳ぎの体力がまず必要。目の前の海峡を通り過ぎる船<彼の少年時代はもう動力船だが>を避ける必要もあった。それにもまして、最大の障害は、潮の強さであったらしい。
眼の片隅に見える船=コースを横切る動く障害物、しばらく経っても動き出さない。
それが潮待ち=停船。動力船といえども、進行方向と真逆に流れる強い潮流に逆らい・速やかに海峡を通過して・向こう側に抜ける気が無いらしい。海峡の手前で、”潮待ち"しているのだ。
”潮"の進む方向・流れの速さ・そして”潮目”が変る時間は、毎日少しづつ変って行く。同じ海域・海峡でも日々刻々に変る。プロの海の男でも、真剣に怖がる恐ろしいものだと言う。
ポパイ氏<能登人にして機関士の経歴を持つ>が補足した。瀬戸内海では、水先案内を2人雇う事もある。それほど難しい海域であるようだ。
さて、瀬戸越えチャレンジの話に戻ろう。
少年波打ち際に立って、瀬戸の幅を読み取る。
瀬戸が島と島の間の最も狭い=ネックであることは常識。だが、その距離を泳ぎきるだけの体力・水泳技能では生還は困難だ。少なくとも3倍以上の海面距離を泳ぎ続けなければならない。”潮”に流されるからだ。
もちろん、対岸の上陸地点の地形もまた、予め読んでおく必要がある。
瀬戸を泳ぎきれても、対岸に上陸を果たして・そこで休息して体力を回復させ・また泳いでこちらの岸に戻ってくる。その算段をこちら側で、概ね決めてからスタートする。
それが無事に生きて還る秘訣であった。
彼の少年時代、対岸に行く=それは船を持つ大人の世界の事であった。
島と島を結ぶ「空の橋桁」はまだ無かったし、徒歩で戻る=復路の保険は全く無かった。すべてを自分の責任として引受けて、”瀬戸を渡り”・”潮に打克って”・そして生きて還る。それが男として認められる少年の夢だった。
そこまで聴いて、瀬戸内海の『潮』の意味が、少し判ったような気がした。
今日はこれまでとします